- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県行橋市
- 広報紙名 : 広報ゆくはし 令和7年12月号
◆「昭和」の元号考案者 吉田学軒(がっけん)
吉田学軒、本名は吉田増蔵、号が学軒である。漢学者で、「昭和」の元号考案者として有名である。慶応二(一八六六)年一月、京都郡上田村(みやこ町勝山上田)に父温次(はるじ)、母イツの次男として生まれた。次男といっても五番目の末っ子である。兄の健作とは十五歳離れている。父の温次、兄の健作も京都郡上稗田村の村上仏山の水哉園で学んでいる。特に健作は、仏山から才能を見込まれ、「健作」という名前を授かっている。
学軒は明治十二(一八七九)年二月に入門するが、この年の九月二十七日に仏山は亡くなっており、仏山からあまり直接学んでいない。水哉園には四年間学んでいるが、父や兄健作からも影響を受け、漢学者としての素地はあったのであろう。
明治十六年、上京して英学を修め、同十七年頃に豊津尋常中学校に入学し、十八年には中退したのち上京し、漢学・英学を学んでいる。明治二十四~三十年に著名な漢学者について学び、二十九年八月に末松謙澄の推薦で公爵毛利家歴史編纂所(へんさんじょ)の嘱託編輯(へんしゅう)委員となっている。
このような経歴を見ると学軒自身、三十歳過ぎまで道定まらずと言ったところであろうか。さらに明治三十三年に和仏法律学校二年級に編入し、同三十九年には京都帝国大学文科大学選科生となり哲学を修めている。
明治三十九年に勤めていた宮内省判任文官を病気のため依願退職し、その後京都帝国大学で哲学を学んでいることから、学軒自身も悩み苦しんだ半生が窺(うかが)えるのではないだろうか。そして明治四十三年、奈良女子高等師範学校講師、二年後に教授となるが、大正七年には、夫人の病気療養のため依願退職している。七十五歳で亡くなるまで波乱万丈の人生ともいえる。
人生何が起こるかわからない。日々コツコツと努力することが最上の道であることを、この吉田学軒は教えてくれているのでは。
(村上仏山・末松謙澄顕彰会 宇野愼敏)
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