文化 ゆくはし今昔物語

山や海に囲まれ、京築地域の中核として人が行き交い、歴史と文化が育まれてきた行橋市。昔懐かしい行橋の風景や町なみの、「今」と「昔」をご覧ください。

◆Vol.029 馬ヶ岳
新年明けましておめでとうございます。今年は午年です。行橋で午(=馬)といえば、何といっても馬ヶ岳でしょう。ということで、今回は馬ヶ岳の今昔を見ていきます。
京都平野の南辺を画する山稜の1つである馬ヶ岳(標高216ⅿ)は、2つの峰からなる山容が神馬に似ていることがその名の由来とされます。天慶5年(942)に源経基(清和源氏の祖)が城を築いたと伝えられ、平安時代末期には草野氏、鎌倉時代には少弐氏、南北朝時代には新田氏など、歴代城主の伝承が残されています。

◇1927年/昭和2年 馬ヶ岳山頂に建てられた「新田氏表忠碑」
昭和2年(1927)に旧豊津中学校(現在の育徳館高校)関係者により、南北朝時代の城主と伝わる新田氏の「表忠碑」が建立されました。
しかしながら、確かな記録から馬ヶ岳城の歴史がたどれるのは室町時代の応永12年(1405)からで、室町幕府の九州探題方が攻め落としたことを記した古文書が伝わっています。
馬ヶ岳城は北部九州の戦略上の重要拠点で、様々な勢力の攻防の舞台となりました。中国地方を拠点に大きな勢力をもった大内氏や毛利氏、豊後を拠点に九州の大半に勢力を拡大した大友氏などが、豊前地域の支配をめぐってこの城の争奪戦を繰り返しました。

・「表忠」とは「忠義を表す」という意味。新田氏が仕えた征西将軍・懐良親王への忠義を称え、その功績を後世に伝える。

◇2025年/令和7年 上稗田からみた初冬の馬ヶ岳
天正14年(1586)、天下統一をめざす豊臣秀吉は九州平定のため、3月28日、自ら遠征軍を率いて九州に上陸します。それより以前、馬ヶ岳城主であった長野助盛は秀吉方に服属していたため、29日に秀吉は馬ヶ岳に入城、九州での初戦となる岩石城(添田町)攻めの軍議を開きます。この戦いはその後の秀吉軍の破竹の進撃の端緒となり、5月下旬に島津氏が降伏。秀吉により九州平定がなされ、7月には豊前国のうち6郡、12万5千石を与えられた黒田孝高(官兵衛・如水)が入城し、居城としました。
その後、黒田氏は海に面して利便性のよい山国川河口に中津城を築き拠点を移しましたが、馬ヶ岳城はその支城として黒田氏の領内統治を支えました。関ヶ原の戦い後、豊前国は細川氏の領地となりましたが、その頃には城としての役割を終え、元和元年(1615)の「一国一城令」で廃城となります。

・フタコブラクダの背中のように東西に2つの頂がある。西の峰(写真右)が本丸、東の峰が二の丸。本丸のさらに西の峰は神籠石がある御所ヶ岳(ホトギ山)の山頂(標高246ⅿ)になる。

平成26年(2014)のNHK大河ドラマは『軍師官兵衛』で、行橋は一時の「官兵衛ブーム」に沸いていました。あれから12年。ブームは落ち着きましたが、馬ヶ岳は『軍師官兵衛』の放送を契機に整備が進み、軽登山を楽しめる山として、市内外より訪れる登山者で賑わいをみせています。

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