くらし みんなで人権(じんけん)を考える「つなぐ」TUNAGU II

■「TUNAGU II」とは
人と人、心と心をつなぐ、世界とつなぐ―人権尊重のまちづくりの一環として、さまざまな人権問題について市民の皆さんと共に考えます。

■「浅草(あさくさ)」~あれこれ~
そのだ ひさこ

9月下旬、女性史・女性問題の学習を3年間つづけてきた坊守さんたち(お寺関係の女性たち)といっしょに、総勢8人で東京都の浅草にでかけた。観光だけでなく、現地学習をかねた旅行だった。テレビの画面どおり、浅草寺前はたくさんの人だかりだった。
浅草の案内図には演芸場などが描かれていて、お笑いが好きな私は心誘われた。浅草は芸能界の著名なタレントたちをうみだした街でもある。数年前、孫に会いに行った帰りに浅草に立ち寄り、1枚のチケットを偶然手に入れ「中村座」(中村勘三郎さんの建てた劇場)に入るチャンスに恵まれた。演目は、新進気鋭の相撲取りと江戸の華である火消しの人たちの対立を題材にしたもので、双方が客席の間を走りまわったドタバタ劇だった。火消しの棟梁(とうりょう)役だった中村勘三郎さんはその後、癌(がん)で亡くなられた。彼の最期の公演を偶然見ることができたことは、本当に幸運なことだった。
明治以降、浅草で次第に芸能・演芸が盛んになったのには理由がある。1842年ごろの天保の改革によって、江戸の三大歌舞伎(かぶき・中村座、市村座、森田座)と種々の芸能は「浅草集住令」という幕府(老中・水野忠邦)のお触れによって、浅草に強制移住を命じられた。諸芸能は、それ以降、浅草に根を張り、どんどん盛んになり、逆に種々の芸能の聖地となっていったという経緯がある。
ちなみに、江戸時代の「浅草」は、葦(あし)などもしげる江戸湾岸の田園地帯で、江戸から見たへき地だった。その地を整備して、17世紀の半ばに日本最大の吉原遊かくがつくられた。吉原遊かくは幕府の公認であり、その収入は幕府への上納金となったので、浅草は江戸から遠からず、近からずの地として選ばれた。
私たち8人は今も残る吉原遊かく跡の「見かえり柳」からスタートして、仲の町とおりを歩いた。周知のように、吉原遊かくは借金によって売られてきた遊女たちにとって過酷な場所であったが、他方ではファッションや浮世絵など日本文化の発信地でもあった。花魁(おいらん)たちは茶道、華道、三味線、俳句など教養深く、彼女たちを描いた浮世絵は世界のあちこちに買いとられ、保存されている。
さらに、吉原遊かくで働いていた遊女たちの骨が埋葬されているお寺にも出かけた。地に深く掘られた大きなコンクリートの納骨堂には、名も無い骨つぼがびっしり積みあげられていた。壁には、江戸情緒の濃く残る吉原をこよなく愛した永井荷風の詩が刻まれていた。無言で、ただひたすら手を合わせた。その帰り、タクシーは私たちの無言ばかりを乗せて、宿泊のホテルまでしんしんと走った。

■相手も自分と同じように
浅草をはじめ日本各地に外国の人が訪れ、日本文化や景観を楽しんでいるニュースが流れています。外国の人には、電車に静かに乗っている姿や行列の順番を守る様子など、日本人が他者のことを考えた行動をしていることも新鮮に映っているようです。
さて、令和6年12月6日には最高裁判所で、部落差別に関して「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により政治的、社会的関係において差別されない」という憲法14条に則った判決が出されました。
自他に対する優しさや配慮だけではなく、相手も自分と同じ権利をもっている一人であるという意識のもと、さまざまな人権問題を解決していきましょう。

問合せ:教育政策課