- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県太宰府市
- 広報紙名 : 広報だざいふ 令和7年6月1日号
■近世紀行にみる太宰府―雨夜(あまよ)の出来事―
梅雨の季節です。旅行中の雨は悩ましいものですが、雨が取り持つ縁もあるようです。
備後国沼隈郡山南(びんごのくにぬまくまぐんさんな)(現在の広島県福山市)の狂歌師含笑舎抱臍(がんしょうしゃほうさい)(1759〜1807年)は、19世紀初頭に太宰府を含む北部九州の各地を訪れ、名所旧跡や旅の様子を『狂歌西都紀行(きょうかせいときこう)』(1804年序)に著しました(『太宰府市史文芸資料編』に収録)。
『西都紀行』によると、4月14日に在所を出発した抱臍が太宰府を訪れたのは5月のことでした。天満宮に参拝するも、折からの雨。降りやまない雨に、急遽宰府に宿を取る人々がいて、その中に「今宵銅鳥居(かねのとりい)の前なる宿屋で日和申(ひよりもうし)の願に各々一芸をいだし神を慰(なぐさめ)む」と各宿屋に触れ回る男がいました。日和申は、晴天になるよう神に祈願すること。つまり神に芸を奉納し明日の晴天を願おうと触れ回っていたのですが、実際は宴会を開く口実ではなかったでしょうか。夜、抱臍が会場の宿屋を訪れてみると、諸国の旅人が入り交じり、伊勢人(いせびと)は松坂踊り、難波人(なにわびと)は花笠踊りのご当地踊り、手妻(てづま)(手品)、小唄、江戸歌舞伎の瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)、上方歌舞伎の沢村国太郎(さわむらくにたろう)の物真似など、次々に一芸を披露しているところでした。抱臍も「何か一つ」と求められ、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の一場面を茶化した狂歌を詠んで宴席を盛り上げました。
『西都紀行』の記事から、宿に集まった旅人たちには、踊りや唄、手品、物真似などを共有し、楽しむ文化的素養があったことがわかります。しかも古典芸だけでなく、江戸や上方の新しい流行が地方に持ち出され拡散されていく様子がうかがえるのです。今回の大河ドラマでも描かれるように、近世後期には江戸を中心に出版文化が興隆し、書物の流通が盛んになります。それとともにお伊勢参りをはじめとした庶民の旅行ブームがあり、旅先での交流が庶民文化の発展と伝播に大いに寄与したのではないかと、抱臍が遭遇した宰府の夜の出来事が教えてくれます。雨が取り持つのは人の縁だけではなかったようです。
太宰府市公文書館
荻野(おぎの)寛美(ひろみ)
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