文化 大宰府の文化財vol.486

■高雄(たかお)の追分石(おいわけいし)時期不詳(江戸末期〜明治か)

本市の南部、筑紫野市との市境にあたる道路の端に追分石と呼ばれる石製の道標(どうひょう)があります。追分とは、道が分かれる場所を指す言葉で、この追分石は所在する地名から鬼面(きのめん)追分石と呼ばれてきました。鬼面という珍しい地名は、現在の筑紫野市側の地名で、その由来は江戸時代後期に編纂された地誌『筑前国続風土記附録』によれば、「その昔、太宰府天満宮の鬼すべ神事で、鬼役の人がここまで逃げてきた。そこで一休みする間に、かぶっていた鬼の面を外して木に掛けた。」とされています。この地にこのような伝承が残っている理由としては、ここが昔から境界の地であるとともに、太宰府天満宮がある宰府と強い結びつきがあったことが考えられます。
実はこの追分石は市境にあるためどちらに帰属するか不明瞭だったのですが、建っている場所を詳細に確認した結果、太宰府市側にあることがわかりました。そのため、太宰府市側の地名を冠して、高雄の追分石として紹介します。
さて、この追分石は国道3号線高雄交差点から西へ約100mの道路沿い、太宰府市の市境標識の根元近くにありました。しかし、交通事故か何か、原因不明ながら今年、令和7年4月ごろにこの追分石が地面から抜けてしまっていました。保全工事を行う間、現地から引きあげた追分石の石造物調査(三次元計測による実測など)を行いました。調査成果の概報として、今までは地面に埋まっていて見えなかった文字が確認できました。また、この追分石が途中で折れたものではなく完形品であることも底部の観察でわかりました。
この追分石は『筑紫野市史』に掲載されており、彫られている銘文から元々建てられていた場所が推定されていました。銘文では右へ行くと筑紫野市阿志岐(あしき)を経て大根地米ノ山(おおねちこめのやま)道へ、左へ行くと太宰府道へ、と彫ってありました。つまり、両方へ行ける分岐に建てて、おそらくは二日市から旅人がこの地に来た際、どちらにいくのかを示していたのでしょう。
今回のことを踏まえ道路安全の確保を図るため、元位置から北西へ40mほど移動し、以前より推定されていた道の「追分」に置くことができました。市民に身近な文化遺産として、今後お知りおきください。

文化財課
髙橋(たかはし)学(まなぶ)