子育て 伝統ある小学校の歴史を未来へつなぐ 地域と共に歩いた学校の軌跡(1)
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- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県添田町
- 広報紙名 : 広報そえだ 令和7年4月号
明治5年に開校した添田小学校から始まる町内各小学校の歴史。令和7年4月、新しい添田小学校の開校により閉校を迎える添田小学校・中元寺小学校・落合小学校・津野小学校・真木小学校が、その誕生から現在まで児童や地域と歩んできた道を振り返ります。
学制が明治5年8月に公布されると、その年の11月に添田村の法光寺を仮校舎として尋思校が開かれました。添田小学校の前身となる学校です。添田小学校は建て替えと移転を行い、昭和33年には各学年に約10クラス、児童数3155人を数える全国でも有数の大規模校となります。炭鉱の閉山とともに児童数は減少していきますが、町内随一の卒業生を誇ります。
本町にある他の小学校の歴史も古く、中元寺地区では明治初期まで民家でわずかな読み書き算段を教える寺子屋教育が行われていましたが、明治11年、上中元寺と下中元寺の境に位置する田中組にあった草葺きの民家を校舎にして学校教育を始めたのが中元寺小学校の始まりです。中元寺校区では剣道が盛んで、昭和10年には大日本武徳会全国少年剣道大会で全国優勝を成し遂げています。
落合地区では上落合村、下落合村、桝田村と3村がそれぞれ独立していましたが、明治9年、3村が連合して下落合地区に校舎を建築し、落合小学校が開校しました。落合小学校では忘れることができない戦災が発生します。第2次世界大戦後の昭和20年11月12日の午後、二又トンネルに格納されていた旧陸軍の火薬が敗戦によって不要となったため、占領軍が焼却処分しようと火薬に点火したことから、山が吹き飛ぶほどの大爆発が起こりました。被害は2キロ四方におよび、家屋の倒壊や火災が続出、落合小学校の児童29人を含む147人の尊い命を失い、負傷者は149人、倒壊家屋は135戸にものぼりました。わたしたちは添田町民としてこの出来事を風化させず、いつまでも記憶にとどめておかなければなりません。
令和4年3月に休校となった津野小学校も明治6年、寺院を借り、これを仮校舎として下津野小学校が開校、上津野では民家で行われていた寺子屋授業が明治7年、小倉藩から上津野小学校と命名され、学校教育が始まりました。上・下津野小学校はその後合併し、津野小学校となります。津野地区では、昭和43年に油木ダムの工事が始まります。昭和47年のダム竣工で住宅150戸、津野中学校などとともに当時の津野小学校も湖底に沈みます。ダム工事の期間中、教師たちは児童の安全指導を怠たらず、一つの事故も起きずに移転を完了しました。
古河大峰鉱業などがあり、炭鉱景気で活気に溢れていた真木地区で昭和34年に開校した真木小学校。開校時に児童数341人でスタートした真木小学校は昭和44年の大峰炭鉱閉山後に78人まで減少します。この頃、体育館建設問題に端を発した真木小学校を廃止し添田小学校へ統合しようとする「真木小統廃合問題」が起こります。しかし、校区住民の真木小存続希望が極めて強く、校区あげての猛反対運動により統廃合は実現に至らず、地域の学校として子どもたちを育み続けました。
明治の時代から地域と共に歩んできた添田町の小学校。人口減少に伴って児童数の減少が続くとともに、近年、教育環境が大きく変化してきました。児童の能力を伸ばしつつ、社会的自立の基礎、国家・社会の形成者としての基本的資質を養うことを目的とする義務教育段階では「集団規模の確保」が重要となります。少人数学校では、様々な学習方法に取り組んでいますが、集団での学習や生活が難しい状況です。集団の中で多様な考えに触れ、認め合い、協力し合い、切磋琢磨することを通じて、思考力や表現力、判断力、問題解決能力などを育み、社会性や規範意識を身に付けることが重要です。
本町はこれまで「地域と共に子どもを育てよう」という考えの基、家庭・地域・学校・行政が一つになって進んできました。急激なスピードで変わる時代の潮流の中でも、家庭や地域の皆さんの支えで、変化に対応できる柔軟な児童を育み、送り出すことが出来てきました。4月に誕生した新添田小学校は、ふるさと添田町を愛し、夢・希望を実現するかしこさとたくましさを兼ね備えた、人間性豊かな心を持つ子どもの育成に励みます。日本の、添田町の未来を担う児童に対して、引き続き皆さんの変わらぬご支援・ご協力をよろしくお願いします。
■添田小学校・中元寺小学校・落合小学校・津野小学校・真木小学校の軌跡