くらし 戦後八十年 -いまを慈(いつく)しみ、未来へつなぐ- 最終章(1)

故 花畑昭一郎(はなばたしょういちろう)様から
平成十七年度広報よしとみ
掲載記事より記す

戦後六十年に思う
昭和十八(一九四三)年の秋の深まった日、大勢の村人の歓呼の嵐と、日の丸の小旗に送られて、一人の少年が中津駅を後にした。海軍飛行予科練習生(通称予科練)として海軍航空隊に入隊する私だった。時に年齢十六歳。中学三年生在学半ばだった。
予科練での訓練は過酷を極めていた。朝五時の起床に始まり夜の消灯まで、分刻みの教程がぎっちり組まれ、搭乗員としての基本的な体力や心作り、学科と、徹底的に叩き込まれたのである。人はここまで耐え得るものかと、心身の限界を知る。夜、床に入り、やっと自分を取り戻し、枕を濡らすこともしばしばだった。こんな訓練に耐えられたのも、戦時体制を背景に「国の為に命を捨てる」共通の決意を持つ集団の場であったからであろう。厳しい毎日の訓練も互いに励ましあい、ひたすら大空に羽ばたく夢を描きながら、日一日と成長していったのである。その頃になると「若い血汐の予科練の七つ釦(ぼたん)とか、同期の桜」の軍歌が流れ出し、更に私たちの心を燃え立たせたのであった。
何とか予科練の課程を終え、次の訓練地である四国の高知海軍航空隊に配属されたのは十九年の十月の上旬だったと思う。他の仲間と共に土讃線の後免という駅に降り立って驚いた。そこには飛行服に身を固め、眼光炯々(まなこけいけい)として人を射るか如き眼をした数人の色黒き先輩が出迎えに立っていた。中の一人が「よう来た。お前達の来るのを待っていたぞ。今日から命がけでお前達を可愛がってやるから、そのつもりでかかって来い」と。我々よりいくらも年上でないと思われるその搭乗員の迎えの言葉に、思わず武者震いをしたことだった。ここ高知航空隊には実際に幾度か死線を乗り越えた歴戦の猛者が手ぐすね引いて我々を待ち構えていたのだった。中には、十六年十二月八日(太平洋戦争の始まった日)に、真珠湾攻撃に参加した教官もいて、苦しい訓練にも耐える原動力になってくれたのである。いつの間にか死に対する恐怖心など、どっかに吹っ飛び、ただひたすら国の為に死ぬ日の到来を待ちわびて訓練に励む毎日だった。
時は変わり二十年(終戦の年)の三月、四月になれば、飛行機上作業が本格的に始まるのだが、練習機が無い、燃料が無い理由で中止。残っていた練習機も特攻として出撃。顔見知りの教官、先輩の姿もいつの間にか、一人二人と高知の空から南の空へと消え去って行ったのだ。後日聞いたのだが、出撃した特攻機も全機、敵のグラマン戦闘機に撃墜されて海の藻屑となったとか。
さて、この頃になると特攻攻撃も空からだけでなく、海上から海中からと、特攻の攻撃が続くのである。その中でも我々予科練出身者が大多数で、十死零生の特攻として出撃したのである。
それではここで、私と時を同じくして予科練入隊、終戦を待たずその三ケ月前に沖縄海上で散華した上西徳英君(黒土村出身)のことを記そう。彼は予科練の訓練を終え、当時極秘とされていた特殊潜航艇「回天」、通称人間魚雷の特攻隊員となったのだ。敗色濃い日本の戦局を一挙に覆す意味で「回天」と名づけられた日本最後の特攻兵器だった。彼がその回天に乗り込み沖縄海上の敵艦目がけて体当たりを敢行し、壮烈な戦死を遂げたことを知らされたのは、戦後かなりの年月が経ってからだった。
出撃した場所は、徳山の沖合いの島と聞く。私は徳山を目指した。駅に降りタクシーの運転手に尋ねてみた。「あー、それは大津島ですよ。ここから五十分ほどですよ」と言う。高鳴る胸を押さえながら島へと向かった。島にはこの基地から出撃した特攻の方々の写真や遺書が飾られている資料館が建っていた。館内に掲げられている写真を目で追った。「あった」。一瞬息の止まる思いだった。そこには出撃前の写真と、故郷の両親への遺書が並べられていた。遺書には国の存亡を憂い、今まで慈しみ育ててくれた両親に先立って死に赴く親不孝をお許し下さいと。そして一人の弟には兄の亡き後、兄の分まで「親孝行を頼む」としたためてあった。涙で曇る目を拭いながら館外に出た。前庭には回天の実物が残されていた。それは艇というより黒の柩(ひつぎ)を想像させられるものだった。この中に一人入り、爆弾を装填した艇と諸共敵艦に体当たりするのである。一度発進すれば死への直行便。再び帰ることの無い死出の船路なのだ。館長さんも上西君のことを良く憶えていて、彼が出撃したという岸壁に案内してくれた。そこは海が深く掘られ、青黒い海水がよどんでいた。ここに日本の潜水艦が迎えに来て、それに抱かれるようにして敵艦近くに忍び寄って発進するのである。ああ、何たることか。この兵器を考案したのは人間か、それとも悪魔か。
岸壁では子供連れの人が釣り糸を垂れていた。同じ場所から死に赴いた人、そして同じ場所で釣りを楽しむ人。「戦争の残酷、平和の幸せ」をしみじみ感じさせられた場面でもあった。帰りの途中に、港の売店の側にいた八十歳過ぎのおばさんに、「あなたはこの島から出撃した回天特攻隊員をご存知ですか」と尋ねたら、「知っていますとも、私達はその方々を“神の子供さん”と言っていました」と。
私は、後ろ髪を引かれる思いで島を後にした。心の中では、こんな悲愴な死をとげて神も仏もあったものかと何度もつぶやいたことだった。戦争の悲劇を語り継ぐために、あえて上西君の死を記す。
私の周辺に話しを戻そう。