くらし 戦後八十年 -いまを慈(いつく)しみ、未来へつなぐ- 最終章(2)

昭和二十年四月の下旬、母が面会に来てくれた。私が最後の便りの隅に「家の井戸水が飲みたい」と書いたのだ。柔道衣の帯で風呂敷包みを二つ前後に振り分けて肩に担ぎ、手に井戸水の入った竹のポンポンを持って、二晩三日かけて航空隊にやって来たのだ。分隊士も「遠い所をお母さんが来たのだから、今夜は特別外泊を許可するから、ゆっくりせよ」と言ってくれたが、隊門の横の面会室で三時間ほどの語らいだった。母も胸をつまらせていたのか、あまり語らなかった。竹筒の井戸水をごくんごくん飲む私の顔をのぞきこんで「おいしいねえ」とつぶやいた。持参の風呂敷包みの中には、あの時代貴重な、私の大好物のボタ餅、キナコ餅、オコワが、そしてま新しの下着があった。
母にとって竹筒の水は、まさに末期の水の思いだったろう。惜別の情を断ち切り、隊門の前で母を見送る。振り返り振り返り遠ざかっていく母の後姿。最後は私に深く一礼して去った。本当は引き返して我が子をしっかり抱きしめ一緒に帰りたかったろうに。思い出は今も鮮明。この世に母の愛に勝るものがあろうか。隊に帰り、母持参の土産を皆で食す。故郷を思い出したのか、各々のお母さんの話しに花が咲き、しばし少年に帰ったひと時だった。
さて、この頃になると敵襲も益々苛烈さを増してきた。空からだけでなく、敵潜水艦も沖合いまでに侵入。航行中の日本船を夜ともなれば魚雷攻撃、火柱が闇を焦がす光景もしばしば見られた。だが、それを迎え撃つ飛行機もなく、高角砲もB29の姿を捉えても弾はそこまで届かない。そのたびに多くの隊員が火だるまとなって吹き飛ばされた。その遺体の収容が大変だった。どこが頭か胴やら不明、黒く焼けただれ、身元を確認するのが大変だった。隊舎も爆破され、私達は飛行場の外を流れる物部川に沿って陣地を作り、来襲する敵グラマン戦闘機に対して機銃射撃を浴びせていたが、あまり戦果は無かった。空襲の無い日は、太平洋岸から上陸してくるソ連の大型戦車に対して爆弾を抱えて、走ってくる戦車の下に身体もろ共飛び込む訓練が続いた。
重い土のうを担いで砂の海岸を走ることは大変だった。汗で目はつぶれるし、砂には足をとられる。それでも耐えた。今に見ていろと。あれほど来襲していた敵機も八月になると、ほとんど姿も見せないようになった。我々は、ぼんやりと疲れた眼で青空を見上げながら不思議に思ったことだった。
そして十五日。この日の南国の空は雲一片無く、真暑の太陽が、じりじり照り付けていた。早朝連絡があって、全員、司令塔の前に集合した。そこで、今日は重大な放送があると聞かされた。まさか敗戦を告げる放送とは思わず、やがて聞き取りにくい小声が聞こえてきた。なんとそれは天皇陛下の終戦を宣言する言葉だった。一瞬にしてその場は怒号と悲鳴に化した。コブシで地を叩く者、そんな馬鹿なと泣き叫ぶ者、呆然自失して座り込む者、その異常の光景は今でも目に浮かぶ。そんな日の夕方、大分航空隊より特攻機が出撃したらしいというニュースが飛び込んだのである。「それ見ろ。日本はまだ負けてはないのだ」と我々は心新たに奮い立ったのである。
後日談になるが、これは事実で、高齢者の方ならご存知あろうが、終戦の日、当時の航空艦隊司令長官である宇垣纏(まとい)中将を乗せた十一機の特攻機が沖縄の米軍基地及びその周辺の艦船に向けて出撃したのである。これが日本最後の特攻出撃となったのである。これについては、四年前に発刊された城山三郎氏の「指揮官たちの特攻」に記されている。終戦を知りつつ、あえて特攻出撃した隊員達、その中には妻もあり、可愛い盛りの幼き子供もあったと聞く。どんな思いでその時を迎えたのか。隊員達の短くやるせない日々、そして残された家族の長く切ない戦後は今も続いているのだ。
そして、混乱の数日が過ぎ、敗戦を確認。九州出身の戦友数名が集まり、これからどうするのかの話し合いの結果、もうこうなれば生きていても仕方がない。死んだ戦友に申し訳ない。一同腹を切って自決しようと話しが決まった。その時突然、長崎の諫早出身の松本秀隆が、「おれの故郷の方には、何でも凄い爆弾が落とされ、何もかもみんなやられてしまったらしい。一度故郷に帰って家族の安否を確かめてみたい。その上で再びここに集まろうではないか」と言いはじめたのである。私達が已に忘れさせられていた「故郷に帰る」の言葉を耳にした時、一瞬にして「故郷恋し」「母恋し」の少年に帰ったのである。再会は果たせなかった。
そして復員。命運ありて私が中津駅に辿り着いたのは九月の初旬だったと記憶する。已に関門にはアメリカ兵が上陸しているとの情報も飛び、いざという時の用意に手榴弾二個と僅かの乾パンを持って高知を出発。三日間をかけて関門トンネルを通過する。途中、広島の草一本の無い焼け野原を見た時、初めて原子爆弾の怖さと非情さを知ったのである。汽車が佐井川にさしかかり八面山が右に見えた時、「ああ帰った」と感無量の思いだった。父を私が二歳の時に亡くし、二度と生きて会えるとは思わなかった一人息子の生還を迎えた母の顔は、今でも心にこびりついて離れない。故郷は私の荒れすさんだ心を優しく包んでくれた。
国の勝利を信じ生死をさ迷いながらひたすら生き抜いた二年の歳月は私の人生の中で最も密度の濃い青春でもあったと思う。そんな悲惨な過去を持つ私だけに、人間一人一人のかけがえの無い命の尊さと、戦争の残酷、むごたらしさを、あえて次の世代に語り継ぎたいと思い、重いペンを取ったのである。田面を渡って来る八月の風は、六十年前の、あの悲愴なる過去のドラマをひそやかに運んで来る。生かされた命を大切に、残る人生を力一杯生き抜きたいとしきりに思う、戦後六十年の私である。(終わり)

平和の尊さと親子の情愛を次世代へ語りつぎ、笑顔あふれる吉富町でありたいと思う。