- 発行日 :
- 自治体名 : 佐賀県鳥栖市
- 広報紙名 : 市報とす 令和8年1月号
■「勝尾城(かつのおじょう)を知る」第18話〜勝尾城の支城『鏡城(かがみじょう)』〜
鏡城(標高191m、牛原町)は、勝尾城の東方約2・5kmに築かれた支城群の一つです。
鏡城は、江戸時代の史料に少弐氏(しょうにし)の属城であったことが記されていますが、確かなことは分かりません。また『筑紫家由緒書(ちくしけゆしょがき)』には、永禄年間(1558~1570年)に筑紫氏の一族間で発生した内紛の過程で鏡城が使用されたことが記されています。
鏡城は、西隣の葛籠城(つづらじょう)とともに谷の出口にあり、勝尾城下の『惣構(そうがまえ)』一帯を見下ろす位置にあるため、葛籠城と連携して正面防衛を担う勝尾城の支城であるといえます。一方で、南麓の牛原集落には武士の館のような形状となっている区画があることから、鏡城自体が平地の居館とセットで、在地領主の拠点として機能していたようにも見えます。おそらく、筑紫氏の有力な家臣が有事の際に立てこもる城としての性格を持っていたのでしょう。
鏡城は、16世紀後半の筑紫広門(ちくしひろかど)が筑紫氏当主であった時期に改修されたようです。城の中心部である主郭の造成が不十分であるのに対し、その南側に連なる2つの曲輪(くるわ)は徹底した造成が行われています。
注目されるのは、曲輪の周囲に竪堀を何本も連続して構築する防御施設の畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)です。もっとも南側の曲輪に付属する竪堀群は、規模・規格がかなり統一されており、計画的に造られた構造物であると考えられます。
こうした鏡城の改修は、戦国末期に筑紫広門によって、勝尾城の防衛ラインに位置する支城として防御施設を集中させるために行われたと考えられます。鏡城は、筑紫氏が持つ築城技術を詰め込んだ城といえるでしょう。
(鳥栖市誌第3巻第5章第2節より)
■「鳥栖市誌」発売中
「鳥栖市誌」は、市教育委員会生涯学習課、油屋本店、古賀書店などで取り扱っています。詳しくは、同課(【電話】0942-85-3695)へ。
