文化 《シリーズ》南北朝・菊池一族歴史街道(22)


◇「鯛生(たいお)」地名の由来
大分県日田市中津江村(ひたしなかつえむら)には、金山(跡)で有名な「鯛生」という地名があります。実は、この鯛生という地名に、菊池一族が関係していることをご存じでしょうか(他説もあります)。
江戸時代の終わりに、現地に伝わるさまざまな昔話をまとめた「豊西説話(ほうさいせつわ)」という本が作られました。その中に、鯛生の地名の由来が、次のように書いてあります。
「中西村(なかにしむら)に鯛生(鯛植(たいお))という所あり、田島舎人(たしまとねり)という武士昔此所に住居せり、肥後の国菊池と内縁あり、或時菊池より大鯛2尾送り来る。舎人家人に申しつけ右の鯛を地に植えたりと云ひ伝う。今に女鯛男鯛石となりて不浄を嫌う。よりて其所を鯛植と号す。」
意訳すると「田島舎人というこの地域を治めていた豪族に、菊池一族との縁談があって一族の娘が嫁いできた。菊池氏(の当主)は縁談を喜び、舎人に大きな雌雄の鯛を2匹送ったところ、鯛が飛び跳ねてそれぞれ2つの岩に張り付き、その岩が鯛生岩と呼ばれるようになったことから、鯛生と呼ばれるようになった」ということです。
さらに、鯛生金山ガイドブック「鯛生金山物語」にもこの説が採用され、建武・延元年間(1334年~1340年)の出来事、と記載されています。この頃の菊池一族の当主は、ほぼ13代武重(たけしげ)にあたります。当主が直接関わっているのかは断定できませんが、縁起物とされ貴重な食材であった鯛を手配し、贈ることができるような立場の者となると、武重も関わっていた可能性は高いように思えます。

◇菊池の七人塚
同じく中津江村の柿の谷という集落に「菊池の七人塚」(日田市指定文化財)という塚があります。戦に敗れて逃れてきた菊池一族の重臣とその家臣が、この地で切腹して果てたため、その供養のために自然石を用いて造られた、とあります。明治時代の中頃までは重臣の塚が一つだけ祭られていましたが、後に埋葬されている人数分、重臣の塚を囲うように配置し、現在の形になりました。地域の皆さんにより、大切に守られています。
ちなみに、この菊池一族の重臣、とは誰だったのでしょうか。実は、柿の谷集落はこの重臣たちの子孫によって拓かれたといわれており、「赤星」という名字が多いそうです。断定はできませんが、何かの関係があるとも言えそうです。
 前回は愛媛県八幡浜市(やわたはまし)を紹介しましたが、姉妹都市の宮崎県西米良村(にしめらそん)、友好都市の岩手県遠野市(とおのし)はもちろんのこと、これまで紹介してきた以外の地域にも菊池一族の事跡や一族が関わった(と伝えられる)場所は全国各地に数多く残されています。これは、菊池一族の活躍や影響がとても広い範囲に及んでいたことを示す何よりの証拠です。

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