文化 《シリーズ》南北朝・菊池一族歴史街道(21)

■愛媛県八幡浜市(えひめけんやわたはまし)
八幡浜市で一番多い姓は菊池(菊地)姓で、約1800人(人口3万人弱)といわれています。4万6千人余の本市のキクチさんが2桁台ということからみても、とても多いことが分かります。
そのルーツは菊池一族だと伝わり、郷(ごう)にある石棟(いしのと)城(尾崎(おざき)城)は、室町時代に一族の末裔が城主を務めたという城です。
13代武重(たけしげ)の子孫・武正(たけまさ)が、応永25(1418)年に嶽(だけ)城主の伊予宇都宮(いようつのみや)氏を頼って石棟城へ入り、城主になったとされています。武寿(たけひさ)-武秀(たけひで)-武朝(たけとも)と続きますが、弘治2(1556)年に宇都宮氏と西園寺(さいおんじ)氏が鳥坂(とさか)の峠で戦った時、通り道に当たる石棟城は攻略されたと思われます。
その後、石棟城主として登場するのは、菊池出雲守武友(いずものかみたけとも)(国木円照寺(くにぎえんしょうじ)蔵系図では近治(ちかはる))。父は、菊池氏最後の当主とされる26代義武(よしたけ)(大友重治(おおともしげはる))です。義武は、豊前・豊後で勢力を伸ばしていた大友義長(よしなが)の子で、前当主の武包(たけかね)を追い菊池氏の家督を得ていました。
しかし、高慢な性格から家臣たちの離反に合い、身の危険を感じた義武は相良(さがら)氏を頼って菊池を離れました。その後、大友氏の家督を継いだ甥の義鎮(よししげ)との関係が悪化、天文23(1554)年に51歳で自刃します。その遺児が武友で、弟は石見守秀隆(いわみのかみひでたか)(同上系図では近元(ちかもと))です。
弘治元(1555)年、島津義久(しまづよしひさ)を頼って落ち延びた後、大友氏と敵対していた西園寺氏を頼り、弘治3(1557)年に伊予へ渡ります。その後、南方(みなみかた)殿摂津親安(せっつちかやす)(西園寺十五将の一人)に属し、その支援で石棟城の城主となっています。
石棟城の主郭跡には、安永4(1775)年に子孫により近治と近元の2基の五輪塔が建てられました。「宇和旧記」や五輪塔によると、近治は天正6(1578)年9月13日に、近元は同年同月8日に没したと記されています。
兄弟の最期が、どのようなものであったか定かではありませんが、長宗我部(ちょうそかべ)氏の援助を受けた大野直之(おおのなおゆき)に攻められて討死したものと推察されています。子孫は西予市三瓶町垣生(せいよしみかめちょうはぶ)に逃れて南方領に住むようになりました。
昨年3月に八幡浜市で開催された「菊池さんの知らない世界」に本市職員が出向き、「入門!はじめての菊池一族」と題して講演し、市内外から参加した約80人が、菊池一族の栄華に思いを巡らせました。
この場でも、八幡浜市と菊池一族との関連を問う声が上がり、石棟城の城主は菊池氏であり、そこから菊池(菊地)姓が広がっていったのではとの推察がなされました。
遠く離れた地で、菊池一族の誇りと菊池という名に対する思いが連綿と続いていることはありがたいことであり、このような交流が続くことを願います。

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