文化 湯前歴史散歩 昭和3年の相良三十三観音めぐり(1)

昭和3(1928)年に湯前の漱泉(そうせん)という人が人吉新報に寄稿した「球磨三十三所彼岸詣」という連載記事のコピーが、本町教育委員会に保存されています。湯前の人が残した、戦前の三十三観音めぐりについて書かれた貴重な文献を紹介します。

■午前3時、湯前を出発
漱泉は本名を中神忠義といい、俳句をたしなみ井上微笑とも交流があった人物で、漱泉はその俳号です。球磨名物の一つ「観音参拝兼吟行(けんぎんこう)」として、観音めぐりを企画したようです。当時から三十三観音めぐりが「球磨名物」と認識されていたことは注目されます。
俳友の宝村(ほうそん)らと7人で、彼岸初日の9月20日午前3時。まだ夜も明けていない暗い中、提灯(ちょうちん)を二つ下げて露で衣服を濡らしながら湯前を出発しました。久米の中山観音(28番)、宮原観音(29番)に参拝を終え、上村の秋時観音(30番)へ向かう途中でようやく夜も明け、百姓家からは朝食の煙も登り始めました。道々、木槿(むくげ)の垣根を見て俳句を詠んだりしています。秋時観音の参拝を終え、午前9時に木上の大平観音に参拝しています。大平観音は札所ではありませんが、ついでに立ち寄ったのでしょう。ちょうど村の娘たちが接待のため大茶釜に火を入れるところでしたが、先を急いでいたのか接待は受けずに出発しています。
一武往還に出たころ空腹を覚え、茶店でおむすび2つを平らげ、参仏の習わしとして茶代1銭を置いていきました。

■一武から湯の元観音まで
休憩を終え草鞋(わらじ)のひもを引き締めて、一武観音に到着。一武観音は第31番土屋観音と思われます。ここで初めて、芋の煮しめと豆茶の接待を受けています。参拝を終え再び一武往還に戻ると、人吉・多良木連絡の貨物自動車が通り過ぎ、塵煙に巻き込まれつつ、小(こ)さで川(がわ)橋を渡り、新宮寺観音(32番)に参拝。門を出て、梨売りの娘と柿売りの老婆に秋の彼岸の風情を感じています。
その後、赤池観音(33番)、中尾観音(2番)を経て、午後2時半には矢瀬(やぜ)が津留(つる)観音(3番)に参拝。小昼時ですが、各所で接待を受け「いささかも空腹を覚えず」と記しています。
矢瀬が津留観音は相良氏が人吉に入城するときに滅ぼした、矢瀬主馬佑(しゅめのすけ)の供養のために建てられたとの言い伝えがあります。漱泉が煙草をくゆらせていると、堂守女が、矢瀬が津留観音の由緒を語って聞かせました。
そこから、さらに戸越観音(三日原(さんじがはる)観音・4番)に参り、球磨川を渡って林湯の元観音(8番)に参拝。1日目はここで終わり、湯の元観音脇の旅籠屋(はたごや)に泊まりました。時に午後4時。疲れた足を温泉で癒し、冷酒にほろ酔い、今日の行脚を語り合い午後11時、床につきました。
※「小さで川」の「さで」は環境依存文字のため、置き換えています。正式表記は本紙をご覧ください。

教育課学芸員 松村祥志(しょうじ)