くらし 小村寿太郎生誕170周年記念 肖像写真から偲(しの)ぶあなたの知らない小村

※年齢は全て満年齢で表記しています。
※人物名は歴史上の人物としてとらえ、敬称は省略しています。
※写真は本紙をご覧下さい。

■日南市出身の明治を代表する外交官「小村寿太郎。」国際社会で活躍した人生を肖像写真と年表で振り返ります。

13歳 長崎遊学時代
少年時代の小村寿太郎は眉目秀麗で、若殿の伊東祐帰に似ていると評判でした。

19歳 ハーバード大学入学直前
留学を終えた小村は外務省に入省しました。ところが父の事業が失敗してその負債に苦しめられました。明治17(1884)年ごろから極貧生活に追い込まれた上に、外務省内で閑職に甘んじる状態にありました。幸い、小村の才能を惜しんだ郷里の人々、学友、同僚たちの助けを得て負債を軽減。同26年に陸奥宗光に見出されて出世の道を歩み出しました。

41歳前後 外務次官時代
この時には当時の紳士のたしなみである口ひげをたくわえています。経済的に苦しかった小
村は、一張羅のフロックコートを着回していましたが、公務で活躍するようになると身だしなみにも神経を使うようになり、ロンドンの老舗仕立て屋に新しいフロックコートを発注しています。また、アメリカ公使後のロシア公使時代には毎朝、理髪師を呼んでひげの手入れを行っていたほどでした。

43歳 米国公使時代
この写真はアメリカに着いて、新聞記者に写真を求められて撮影され、何度も撮り直して小村からOKが出たそうで、本人お気に入りの一枚だったのでしょう。苦労を重ねたためか彫りの深い顔立ちとなり、ドイツ人のような風貌と言われたのはこの写真です。
外国人に似ている逸話がもう一つ。日露戦争が勃発して2カ月後のこと。あるイギリス人が「小村外相を見るたびに、わがイギリスの国務長官を思い出す」との印象を持ちました。
思い切ってその事を話すと、小村は「もし、その国務長官が、貴方の話を聞いたら、気を悪くするでしょう」と笑い飛ばしたそうです。

49歳 日露講和会議時
51歳頃 英国大使時代
明治38(1905)年のポーツマス条約締結の激務以後、体調を崩し体力が衰えました。
小村は「おれは十年に一度は、死ぬような病気にかかっている。しかし、まだなかなか死に
はせん」と言って、晩年は病を顧みず関税自主権の回復を成し遂げました。

■竹香園の小村寿太郎像
銅像について小村が語った面白い逸話があります。それは日清戦争で日本が勝利した後、関係者の銅像が建てられはじめた頃の事、陸軍参謀として活躍した川上操六の銅像が東京の九段坂に建設されると聞いた小村は「いまに日本中、銅像だらけになるぞ」と辛口の感想を述べたそうです。この時は後世、自分の銅像が建つと思ってもいなかったのでしょう。もし小村が自分の銅像を見たら何とコメントしたでしょう?
※この銅像は朝倉文夫の作で、1952(昭和27)年に有志により建てられました。

■年表 1953-1911

来月号は「ポーツマス条約締結120周年」・「ポーツマス市との姉妹都市盟約締結40周年」を記念した特集を掲載予定です。どうぞお楽しみに!

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