- 発行日 :
- 自治体名 : 鹿児島県霧島市
- 広報紙名 : 広報きりしま 2025年5月上旬号
5月は新茶の季節。若葉の香り豊かな新茶をいただくと、欲しくなるのが甘い物。爽やかな新茶に、優しい甘さの郷土菓子はいかがでしょうか。
■ふっかん
隼人町浜之市では古くから「ふっかん」という菓子が、田植えの時などのお茶請けとして作られてきました。黒糖の優しい甘さで、「ようかん」や「ういろう」に似た食感の郷土菓子です。鹿児島弁で「ふっ」とは「ヨモギ」のことを指すので、「ふっのもっ(よもぎ餅)」や「ふっのだご(よもぎ団子)」のようにヨモギを使った菓子のようですが、「ふっかん」には全く使われていません。
その昔この菓子を富隈城の殿様に献上したところ、殿様は大いに喜び、地元の人々にも広めるよう言われたことから、人々に福をもたらす「福のようかん」が転じて「ふっかん」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。
■げたんは
横川町が発祥といわれているのが、郷土菓子「げたんは」です。黒糖をたっぷり染み込ませた色合いや、見た目がげたの歯に泥が付いた様子に似ていることから「げたんは(げたの歯)」と呼ばれるようになったといわれています。また三角の形から「三角菓子」、地名から「横川菓子」とも呼ばれていたそうです。
大隅横川駅前の数軒の菓子店で作られていた「げたんは」は、駅利用者の減少とともに昭和初期に途絶えていましたが、平成16年に横川町食生活改善推進員によって復活しました。
■菓子誕生の背景
「ふっかん」の名前の由来となった富隈城の殿様とは、島津第16代当主の島津義久のことです。戦国武将である島津氏は九州のほとんどを手中に収める勢いでしたが、天正15(1587)年に豊臣秀吉軍に敗れました。その後、文禄4(1595)年に秀吉から(※)所替(ところがえ)を命じられた義久は、鹿児島の内城から富隈城へと移ってきました。慶長9(1604)年に国分の舞鶴城(国分新城)に移るまでの間、富隈城周辺は家臣団の城下町として、富隈之湊(現・隼人港)は貿易港として整備されました。黒糖の製法が琉球・奄美に導入されたのは江戸時代になってからのことで、この頃はまだ国内生産されていなかったため、琉球を通じた輸入黒糖が入ってきていたのかもしれません。舞鶴城への転居後も、富隈之湊は鉄道が開通するまでは物流の拠点であり、黒糖が入手しやすい環境であったと考えられます。
一方、「げたんは」が作られた横川町には、江戸時代から昭和初期にかけて操業していた山ケ野金山がありました。国内有数の産出量を誇る山ケ野金山の町には商店や遊郭が立ち並び、金と人であふれました。明治36(1903)年に鉄道ができると金の輸送やコメの集荷地として多くの人々が集まり、「げたんは」はこうした人々をもてなすお茶請けとして作られ始めたそうです。黒糖をたっぷりと染み込ませて作る「げたんは」は、富と人が集まる場所で生まれたぜいたくな郷土菓子といえるでしょう。
黒糖の風味があふれるお菓子を頬張ると、さっぱりとした新茶を飲みたくなります。霧島茶の新茶と一緒に郷土菓子をどうぞ。
(文責=堀之内)
(※)武家時代、大名などの領地を他に移し替えること。