- 発行日 :
- 自治体名 : 鹿児島県中種子町
- 広報紙名 : 広報なかたね 令和8年(2026)1月号
■種子島の養蚕(ようさん)業~羽生六郎左衛門道(みち)潔(きよ)と芋虫~
町内の方が古い糸車を見て、「蚕が繭を作ったら、中から虫が穴を開けんうちー熱湯に浸けんばいけんろう。そうせんば糸車で糸になす時、切れてしもうから…」と養蚕のことを語られました。
そもそも種子島の養蚕業が始まったのは藩政時代、文化14年(1817)頃といわれています。
藩主島津斉宣公の時、江州(現滋賀県)彦根から招かれた養蚕指南人松村儀兵衛がいました。種子島の郡役羽生六郎左衛門道潔は養蚕の方法を松村氏に教えてもらい、種子島でも養蚕を広めてもらうように許しを得ました。松村氏は約7ヶ月間、士族の子弟に養蚕・製糸の方法を詳しく指導しました。道潔は翌年から熱心に養蚕業を奨励し、文政8年(1825)に御用蚕係に任命されました。その後も尽力し、文政9年(1826)には養蚕戸数130戸になり、島内に広まりました。
しかし、天保2年(1831)から唐芋の葉などを喰う芋虫が大発生し、苗床まで喰われて唐芋が全滅してしまい、島民は食べ物に困りました。当時の農民たちは、芋虫と蚕(かいこ)が似ていたので、芋虫は蚕が形を変えた虫と思い込み、その芋虫は「六郎虫」と呼ばれ、道潔は島内の農民たちから恨まれました。道潔は抑えようと力説したが、島内各地の農民たちは養蚕廃止を願い出ました。ついに松(しょう)寿(じゅ)院(いん)は3年間の養蚕中止を言い渡し、道潔は領民に養蚕を勧めた罪で一時大島に流刑となりました。…
との逸話が残っています。
中種子町立歴史民俗資料館
