文化 町誌編さん室の島のむんがたり

■尾母の歴史散歩
前回(8月号)では亀津から尾母までの古道を歩いてみました。今回は、尾母の概観を紹介します。
「全島口説(ぜんとうくどき)」という島唄に「村ぐぁぬうちゃがりどぅやうむぬむらど」(村の浮き上がっているところは尾母の村)と歌われ、標高は約180メートル、夏は涼しく海を見下ろす位置にあります。晴れた日には奄美大島の島々がくっきりと見え、奄美の主要な山々を眺めることができる風光明媚(ふうこうめいび)な集落です。
地名の由来は不明ですが、尾母出身の郷土史家・故徳富重成氏は、沖縄方言で草原を「モー」と言い、徳之島では「モ」は「ム」と変化することから、「ウム」は草木の繁茂(はんも)する場所という意味ではないかと考えていました。私見で恐縮ですが、尾母は「ハイモイ(南風靄(はえもや))」という言葉があるくらい春から夏にかけて数か月間霧に覆われます。このため「ム」は霧または靄から来た言葉なのではないかと考えています。ただし田芋やアケビ科のムベの実のことを「ウム」というようですから、植物名が語源の可能性もあります。
尾母集落の始まりは、本川(ほんがわ)の河口付近に住んでいた人たちが狩猟採集生活から農耕生活へと変化する中で、農地を求めて大谷山周辺に移動したのではないかと、徳富先生は述べています。
確かに、本川河口には弥生時代以降の遺跡「本川貝塚」があり、川向うの崖下には「尾母墓」と呼ばれる崖を彫り込んだ古い墓地が残っています。考古学的に徳之島は狩猟採集中心の生活が数千年続いた後、約千年前を境に農耕が開始されたことが分かっていますから、その可能性は高いかもしれません。
尾母集落内にある遺跡として一番古いのは、カムィヤキ土器の破片がたくさん出ている大谷山周辺で、この近くにカムィヤキの窯跡があったのではと推測されています。時代は11世紀頃になります。大谷山にいったん生活拠点を構えた人々は、間もなく、水が豊富で農耕にも適した尾母小学校周辺に移動したと考えられます。尾母小学校の小字名は尾母といい、明治初期の竿次帳(さおつぎちょう)(土地台帳)を見ると26軒の家がここに集中しています。溝川神社も隣接していて、尾母集落の中心地と言えます。
ところで、徳之島で最初の「三平大繁務(みひらおおはむ)」(徳之島のノロ制度の長で、薩摩藩支配時代は島内35名のノロに辞令書を発行した)は尾母にいました。本来、琉球国でノロ辞令書を発行できるのは首里の三平(みひら)等だけです。そこに代わって辞令書発行が許された三平大繁務は、琉球王の血族である必要があったと思われますが、なぜそのような女性が尾母にいたのかは不明です。「三平所」はこのあと花徳に移り、その後兼久のノロが受け継いだことが分かっています。
(町史編さん室 米田 博久)

問合せ:郷土資料館
【電話】0997-82-2908