文化 町誌編さん室の島のむんがたり

■尾張の船主 文吉がみた徳之島
○徳之島物語
「尾州知多郡半田村に文吉という舟持あり。渡世のため商い物を積みて、享保十年(※1725年)十一月江府へ下り、その帰るさに難風に遭い、薩摩の外徳之島へ漂泊」…
このような書き出しで始まる「徳之島物語」という漂流記があります。現在の愛知県半田市の文吉という船主が、商売のため江戸へ向かいました。江戸で商売を終え、12月17日に江戸を出発して帰路に着きました。しかし、伊豆沖を航行中、突然、悪風が吹き、東南方向に流されました。このとき帆柱も折れ、気づけば島影もみえない大海のなかを漂流…。
絶対絶命の状況です。文吉たちは神仏に祈りを捧げ、北西の風が吹けば吉であるという「御籤(みくじ)」を信じ、その風が吹くことを待ちました。漂流から3か月半が過ぎた3月9日の夜明け頃、「山のかたちのごとくなる所」、徳之島の山が見えたのです。

○島の人びととのコミュニケーション
徳之島に無事上陸した文吉たちですが、どこの島なのか検討がつきません。島民のなかに「日本言葉通ずるもの」がいて、ここはどこですかと尋ねところ、「徳之島」と答えました。仕事柄、文吉は諸国を遍歴していますが、徳之島がどこの国の島なのかはわからず、「領主ありや」と再質問したところ、「薩摩守」と返ってきました。「日本言葉通ずる」、島役人やその子弟らが対応したものでしょう。

○文吉の徳之島見聞
文吉たちは尾張へ戻るため順風を2か月待ちました。その間、徳之島の一面を見聞しています。たとえば、「徳之島にははぶという虫あり、その虫日本のまむしのごとくにて」。文吉たちになじみのあるマムシとハブとを比べています(図1)。また、「女は歯黒の代わりに、手の裏表に、いろいろ黒赤の入ほくろ紋所のようなるものを付けるよし」とも。「ハジキ」等といわれた女性たちの入れ墨です(図2)。
文吉はほかにもさまざまな見聞を「徳之島物語」に遺しました。18世紀初めの徳之島の一面がうかがえるとともに、漂流体験が記録されたのは、「漂流記」がヤマトの人びとの読書の対象であったことも関わっています。
※各図は本紙をご覧ください。

町誌編さん室 竹原祐樹

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