- 発行日 :
- 自治体名 : 沖縄県南風原町
- 広報紙名 : 広報はえばる 令和7年6月号
■終戦80年特集(4) 戦火をさまよう住民
1945年4月9日、地上戦が始まる中、南風原村役場は日本軍の指示を受け、住民に現在の南城市玉城親慶原への避難指示を出します。しかし、米軍の攻撃は始まっており、一部の住民にしか指示は届きませんでした。そのため、住民の多くは集落周辺の丘や庭に造った壕などに避難しました。
また、親慶原へ避難してもどこに避難すればよいか分からず、南風原に引き返した人や南部へ向かい戦闘に巻き込まれた人もいました。
その後、多くの住民が4月中旬頃から5月下旬に南部へ避難します。しかし、南部避難の際もどこへ避難すればよいか分からないため、激しい攻撃で多くの方が犠牲になりました。住民の多くが6月に南部で命を落としています。
文化センターの展示に収容所へ向かう金城義夫さん(当時9歳)家族を写した写真があります。
一家は、津嘉山から現在の南城市糸数を経て糸満へ避難しますが、南へ向かうにつれて逃げ場が少なくなったそうです。ある時、大きなガジュマルのそばに隠れていると、日本軍兵士に「沖縄の島は日本軍が守るから、君たちは出て行け!」と言われて追い出されました。その時、義夫の父が「もう家族一緒に死にましょう」と言って、丘を上り、車座になり、「ここに爆弾を落としてくれ」と祈ったそうです。しかし、爆弾は落ちてこなかっため、南へ避難しました。
最後は、喜屋武岬の自然壕に隠れているところへアメリカ兵がやってきました。「どうせ死ぬという覚悟で丘の上にも行った。アメリカーに殺されてもいいよ。」と父が言い、壕を出たところで捕虜になりました。写真は、その後収容所に向かう際に撮られたものです。
この様に死ぬ覚悟をもって捕虜になった人もいれば、捕虜になると殺される・乱暴されるという情報を信じて逃げまどい、命を落とした人もいます。
最終的に沖縄戦で南風原住民の約44%が命を落としています。4人に1人が命を落としたとされる沖縄戦の中でも、南風原は高い死亡率であるといえます。(保久盛)
問合せ:南風原文化センター
【電話】889-7399