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文化財めぐり 453

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京都府亀岡市

■豊臣政権と保津川
関ケ原合戦で豊臣軍は敗戦しましたが、豊臣家重臣の前田玄以には亀山城が安堵されます。しかし、慶長七年(一六〇二)に玄以が没すると、その子の茂勝は篠山城へ転封となり、後任には徳川家康重臣の北條氏勝(ほうじょう うじかつ)が亀山城在番として送られます。
ここに、豊臣政権の亀山城主時代は終わりを迎え、以後は徳川家康の家臣が亀山城主(亀山藩主)として任じられることになります。
豊臣政権時代には、亀山城下町が整備されるとともに、亀岡市域で大規模な検地(太閤検地)が実施され、各地域で江戸時代以降の基礎となる「村」が成立していきました。そうした意味で、亀岡市域における豊臣政権の果たした役割は小さくないといえます。
これに加えてここで紹介しておきたいのは、豊臣政権と保津川水運の関係です。保津川の筏師に対して初めて諸役(税金の支払等)を免除し、「筏差し」=筏流しを奨励したのは、羽柴秀吉と考えられています。
秀吉が筏流しを奨励したのは、自ら大坂城や聚楽第、伏見城、大仏殿などの巨大建造物を続々と建設し、木材の必要性が高まったためと考えられます。
いっぽうで、このことを機に、筏師の需要も拡大し、流域の村々も発展していったと推測されるのです。

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