■阿諏訪・新川橋(しんかわばし)の二つの石仏
阿諏訪公会堂近くの阿諏訪川にかかる新川橋の傍(かたわ)らに2つの石仏が人々の往来を見守っています。1つは町指定文化財・大行寺(だいぎょうじ)地蔵尊、もう1つは馬頭観音(ばとうかんのん)です。
大行寺地蔵尊は中世・室町時代に造立(ぞうりゅう)された石仏と考えられ、入間地域でも大変貴重な文化財です。
地蔵尊の大きさは高さ85センチ、顔は縦・横ともに15センチ、肩幅は30センチで、頭は坊主の僧形、身体は法衣(ほうえ)を着て合掌(がっしょう)した姿です。石材には御荷鉾緑色岩(みかぶりょくしょくがん)が用いられ、毛呂山の山間部に分布している硬い石材です。また、一塊(いっかい)の石材から地蔵の全体像を彫り出す丸彫で彫られています。
大行寺地蔵尊は元々、阿諏訪地区と滝ノ入地区の境にそびえる龍谷山(りゅうがいさん)の東のふもとに建立(こんりゅう)されていた大行寺にありました。江戸時代後期に編纂(へんさん)された「新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)」の阿諏訪村の項に、大行寺は法恩寺(ほうおんじ)(越生町)の末寺として龍谷山地蔵院と号し、寛正(かんしょう)6年(1465)に道節禅門(どうせつぜんもん)が開基(かいき)し、地蔵菩薩(ぼさつ)を本尊としたと記されています。
やがて大行寺は、明治2年(1869)に廃寺となり、その後に地蔵尊は現在の場所に移されました。大行寺は、明治6年(1873)の学制に伴って開校した阿諏訪村・滝野入村による阿諏訪学校の校舎に充てられたこともありました。跡地には現在、六地蔵や馬頭観音が確認できます。また、中世の板碑も多く発見され、地蔵菩薩の種子(しゅじ)を刻む板碑も確認されています。
大行寺地蔵尊に並んで馬頭観音があります。寛政(かんせい)6年(1794)に、当時の阿諏訪村の人々によって造立されました。
高さ99センチ、幅37センチと大行寺地蔵尊よりも大きく、忿怒(ふんぬ)の表情をした3面の顔と6本の腕の像を浮き彫りにして彫られていて、大行寺地蔵尊とは異なる趣(おもむき)を感じさせます。馬頭観音は町内のあちこちで見かけますが、この馬頭観音は欠損した部分がほとんど見られない大変美しい馬頭観音です。
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