【さまざまな歴史を刻んできた船橋遺跡(5)~壮麗な古代寺院~】
参拝したり御朱印を集めたり…現代の私たちにとってお寺は身近な存在でしょう。日本における寺院は、蘇我(そが)氏の庇護と百済(くだら)からの技術者の支援の下で崇峻(すしゅん)元(588)年から建設された飛鳥寺に始まります。百済から伝えられた新たな技術は、その後近隣の豊浦寺(とゆらでら)、斑鳩(いかるが)の法隆寺、摂津(せっつ)の四天王寺に移り、畿内へと広がっていきます。
船橋遺跡でも、古代寺院とみられるものが見つかっています。これを船橋廃寺(ふなはしはいじ)と呼んでいます。船橋廃寺は江戸時代に付け替えられた新しい大和川の河床部分に当たるため、発掘調査も実施されておらず不明な点も多くありますが、ここから見つかった瓦からわかることもあります。今でこそ日本の建物と言えば瓦葺きの建物のイメージが強いですが、日本で瓦が屋根を葺く材料として用いられたのは、飛鳥寺が初めてになります。その後も、古代で瓦を用いる建物は寺院・役所・宮殿で、瓦葺きの建物は権力や宗教の象徴でした。つまり、瓦がたくさん見つかるということは、こうした建物があった可能性が高いことを示します。この他河床でかつて露呈していた礎石(※1)の存在も鑑みて、ここに古代寺院が存在した可能性が推測されています。礎石や出土した瓦などから、船橋廃寺は四天王寺式伽藍(がらん)配置(※2)をとり、7世紀前半に創建されたとみられます。
瓦葺きの屋根は、基本的に丸みを帯びた丸瓦(まるがわら)と丸瓦より平らな平瓦(ひらがわら)を組み上げていきます。その中でも、軒先部分にあたるものを軒丸瓦(のきまるがわら)、軒平瓦(のきひらかわら)とそれぞれ言い、その先端には紋様が施されています。軒丸瓦の紋様には、円を重ねた重圏文(じゅうけんもん)、鬼の顔をかたどった鬼面文(きめんもん)、蓮の花をモチーフにした蓮華文(れんげもん)などがあります。蓮華文は最も多い紋様で、花弁の表現の方法だけで大きく素弁(そべん)、単弁(たんべん)、複弁(ふくべん)(※3)の3種類もあり、さらに花弁の形や数、中央部分のパーツや蓮華部分の外側にめぐる紋様の組み合わせが多岐にわたります。共通する紋様の要素と構成をもつ瓦を、標識となる寺院の名称をつけて「○○寺式軒瓦」と呼ぶことがあります。船橋遺跡から見つかった瓦のうち、素弁蓮華文軒丸瓦は「船橋廃寺式軒丸瓦」と呼ばれ、標識とされています。
古代の寺院は、現代の私たちがよく見るシックな色合いではなく、朱色や緑で木材が塗られ、金色に輝く飾り金具が飾られ、当時は珍しい瓦が屋根を覆う、きらびやかなものでした。藤井寺市域では船橋廃寺をはじめ古代寺院が数多くつくられました。交通の要衝であったため、権威を見せつけることも一つの理由だった可能性が考えられます。古代の人たちは、きらびやかな建築物を眺めながらここを通って行ったのでしょう。それは、古墳時代に巨大な古墳を眺めた時とは異なる驚きや感動だったのかもしれません。
(文化財保護課 河合 咲耶)
(※1)建築物の柱の沈下を支える働きをする石。
(※2)伽藍配置は、金堂・講堂・塔・回廊など、寺院の建物が敷地内でどのように配置されたか類型化したもの。
(※3)1枚の花弁の中に、「子葉(しよう)」と呼ばれる小さな花弁があるものがあります。1枚の花弁の中に子葉が1枚あるものを単弁、2枚あるものを複弁、子葉がないものを素弁と呼びます。
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