豊臣秀吉が天下人として権勢を振るっていた文禄3年(1594年)4月、左大臣(朝廷で太政大臣に次ぐ高位の官職)経験者の近衛信尹が薩摩国に流されます。これは信尹が朝鮮へ渡るため独断で名護屋(佐賀県唐津市)に向かったことが原因ともいわれます。
薩摩への旅路について関白・豊臣秀次は、尼崎から細島までは船3艘(そう)、細島から綾までは人足100人、乗懸馬(のりかけうま)(荷物や人を運ぶ馬)13疋(ひき)で向かうよう指示しています。
信尹は4月14日に京を出発し、尼崎からは船で進み、28日に細島に到着します。細島では「玄芳(げんぽう)」という寺に宿泊していますが、現在、この名前の寺はなく場所の比定(ひてい)にはさらなる検討が必要です。
この玄芳には30日まで宿泊し、翌5月1日、細島を出発します。出発に際し、船頭や肝煎、奉行等に銀や帷子(かたびら)、茶碗等を渡しています。
この日、高鍋に向かう途中、耳川で休息します。ここでは舟の渡しがあることのほか、「美色数多所也」と記しています。耳川近辺には信尹の目に留まる美しい光景が多くあったのでしょう。
その後、鹿児島に到着した信尹は島津家の厚遇を受け、和歌や連歌、茶の湯等をして過ごします。
配流3年目となる文禄5年(1596年)、信尹は許され、京へ戻ることになります。閏7月20日には、耳川に到着し宿泊。翌21日には細島に到着し、佐土原や庄内(都城)等に書状を出す等して過ごし、23日に蒲江に向け出発します。
この後、京に戻った信尹は、慶長6年(1601年)、左大臣に復職、慶長10年(1605年)には念願の関白(天皇の補佐職)にまで昇りつめました。
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