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ほくと歴史めぐり

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山梨県北杜市

◆甲信国境のはなし

現在、八ヶ岳西側の山梨県と長野県の県境は甲六川となっていますが、昔は甲六川より北西側が境であったという説があります。
これは、天文(てんぶん)9年(1540)に武田信虎が諏訪氏との同盟強化のため、三女禰々(ねね)を諏訪頼重(すわよりしげ)に嫁がせた際、その持参金として国境(くにざかい)(甲斐国と信濃国の境)の村々を諏訪氏に贈おくったという伝承が元になっていると考えられます。『山梨県の地名』には山浦(やまうら)十六ヵ村、『原村誌』には境方(さかいがた)十八ヵ村として具体的な旧村名も記載されるなど、その数に違いはありますが、禰々の輿(こし)入れとセットで紹介される有名な話のようです。
しかし、禰々の輿入れを記載する『勝山記(かつやまき)』や『神使御頭之日記(しんしおとうのにっき)』といった古記録には、国境の変更という重要な話題について全く触れられておらず、このことが史実ではなく伝承といわれる由縁(ゆえん)でしょう。
信虎は、享禄(きょうろく)元年(1528)に諏訪氏との合戦に及び、先達城(せんだつじょう)(富士見町境)を築城し、神戸(ごうど)(富士見町富士見)と堺川(さかいがわ)で1日に2度戦っています。また、天文4年(1535)には諏訪頼満(よりみつ)と和議(わぎ)を結ぶため堺川北岸に出向いています。ここに出てくる堺川が当時の国境と読めますが、現在堺川という川はありません。
この問題に河川の流路から考えた説に堺川=立場川説があります。これは、県境となるO無川と甲六川の合流点にズレがあることに注目したもので、仮に立場川を境とすると大武川地区の北で合流し、北から南への直線的な線となります(図1)。
また、武田信虎とは関係なく国境が定まった説もあります。天正10年(1582)、武田家が滅亡し、本能寺の変で大混乱となった後に、甲斐・信濃両国を巻き込んだ天正壬午(じんご)の乱という戦が起きました。この時、勢力を保っていた諏訪氏が混乱に乗じ、実力で国境を切り取ったため、そのまま国境が確定し、現在に引き継がれたと考えられています。
これらはあくまで推測の域を出ないため、問題の決着には新たな考古資料や文献資料の発見が必要です。
※図は本紙P.28をご覧下さい。

問合せ:学術課
【電話】42・1375
【FAX】25・2019

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