■明石に残る地球儀と津山との関係
東経135度の日本標準時の子午線上にある兵庫県明石市には、江戸時代後期の弘化3年(1846)に作成され、同市の重要文化財に指定されている地球儀があります(左の写真)。直径37・6センチの球は張子(はりこ)製で、表面に胡粉(ごふん)(貝殻から作られた白色の絵具)が塗られた上に経線・緯線が引かれ、海洋と陸地の情報が記されています。北極から南極まで軸を通し、外周を1周する真鍮(しんちゅう)製の環に軸を取り付け、木製の架台(かだい)に載せたものです。現在は明石市立文化博物館に収蔵されているこの地球儀。実は、ある世界地図をもとに作られたことが判明しています。
その地図とは、津山ゆかりの地理学者、箕作(みつくり)省吾が弘化元年(1844)に刊行した『新製輿地全図(しんせいよちぜんず)』です。奥州水沢(今の岩手県奥州市)出身の省吾が、津山藩医箕作阮甫(げんぽ)の婿養子になったその年に刊行したものです。10度ごとに引かれた経線・緯線はもちろん、記号で図示された植民地の所在や、従来の地図より正確なオーストラリアの海岸線、「共和政治」と表記されたアメリカ合衆国など『新製輿地全図』の特徴が、この地球儀にはすべて反映されています。経年劣化で色あせていますが、かつては『新製輿地全図』と同様に、大陸ごとに海岸線や境界が着色されていました。
架台に記された銘によれば、この地球儀は明石藩医の藤村覃定(たんじょう)が、藩主の命を受けて作成したといいます。では、藤村とはどのような人物なのでしょうか。戦災や水害に見舞われた明石では、残念ながら藩政資料の多くが失われ、藤村についても断片的なことしかつかめないのが現状です。しかし、江戸詰であったのか麹町の在住で、画家としても活躍し、蘭学者の渡辺崋山と深い親交があったことが分かっています。今のところ、箕作家との直接のつながりは確認できませんが、津山と明石の藩主は、同じ越前松平家の一族。地球儀の作成が藩主の命によることと考え合わせると、いろいろな推測ができそうです。いずれにせよ、平面の世界地図を立体の地球儀へと変換できた藤村が、天文学・地理学の素養の深い優れた蘭学者であったのは間違いないでしょう。
問合せ:津山洋学資料館(西新町)
【電話】23-3324
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