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良寛をたどる。

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新潟県出雲崎町

このコーナーでは、良寛記念館に所蔵されている良寛に関する作品をご紹介します。

良寛遺墨漢詩五首の内『青山前輿後』部分

■原文
青山前輿後 白雲西復東
縦有経過客 清息應難道

■読み下し文
青山前(せいざんまえ)と後(うし)ろ与(と) 白雲西又(はくうんにしまた)
東(ひがし)す 縦(たと)い経(けいか)過の客(きゃく)有(あ)るとも
消息(しょうそく)應(まさ)に道難(みちがた)し

■意訳
私が居る国上山は、前後を青々とした山に囲まれている。山に掛かった白雲は、西へ東へと雄大に流れている。ここ国上山は、そのような別天地である。過去にこのような別天地に優れた学僧が住み、そこで長年修行を積んだという話を聞いたことがある。しかし、その優れた学僧でさえも悟りを開いたと聞かないのである。「まさに仏道は成就し難い」のである。

■解説
良寛の五言絶句作品。当漢詩とほぼ同詩を、令和三年の八月号で紹介した。
良寛の漢詩を詠む場合、注意点が一つある。それは、良寛の漢詩は大きく二つに分類されることである。一つは、仏法が説かれているものである。二つには、自然について詠んだものである。そして、いずれも、仏法と自然の中で良寛自身が、如何にミニマムな存在であることを表現している。そう表現することで、仏様と自然への尊敬と感謝、そして雄大さを表現しているのである。
良寛の漢詩をそのように分類したのは、群馬前橋龍海院住職の蔵雲(ぞううん)と良寛弟子の貞心尼(ていしんに)である。一八三七年、両名は江戸で日本初の良寛詩集「良寛道人遺稿」を出版する。貞心尼は、その添え書きに「末世同行の人のため(末法の世の仏教徒のため)」と「良寛道人遺稿」出版の対象と目的について記している。両名が仏法を説いていると判断した良寛の漢詩は、二三四首に上る。時代によって様々な解釈はあるが、今月号では蔵雲と貞心尼に准じ、より仏教的な視点から読み解きたい。
仏教で「縦」とは、仏法や修行を伝えるもの、具体的には「お経」のことを差す。お釈迦様は「唯説弥陀本願海」、唯、阿弥陀如来の本願海を説くためにお生まれになった。その本願を説いた仏法が今、私たちに説かれ、受け止められるのである。その自覚が、自分とお釈迦様とが「縦」の糸で繋がっていると感覚するのである。それ故、仏法は「経(縦)糸」とも呼ばれ、略して「お経」と云われるのである。それに准ずれば「縦有経過客」は、長年仏道を歩んでいる雲水行脚(うんすいあんぎゃ)の修行僧と詠める。良寛は具体的に「縦有経過客」が誰なのかについて触れてはいないが、そのような過去の立派な僧でも悟りを開いたと聞いたことがない、と云う。そうであるからこそ、良寛の心は当然、過去の優秀な修行僧でも悟りを開けないのであれば「私(良寛)程度の者では、悟りを得ることなど、できないであろう」ということである。また、良寛が国上山を離れなかった理由もここにある。つまり、此処で悟りを開けないのであれば、他の何処でも駄目だろうという事である。そして最後に「應難道(まさに仏道は成就し難い)」と、仏道の深さを伝えているのである。
当漢詩は、良寛の悟り得ないという、悩みを詠んだ漢詩であるが暗さはない。それは、良寛の悩みの深さを照らす「縦(仏法)」の大いなる光が、感じられるからである。そう受け止めた蔵雲と貞心尼は、当漢詩を「良寛道人遺稿」の二二四首目に記している。
良寛記念館 館長

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