前稿で九世紀中頃の須恵器無台杯(すえきむだいつき)の底部に記された墨書を「田領(でんりょう)」と読める可能性が高いことを紹介した。では、「田領」とは何を意味するのか。
各字面(じづら)を素直に見ると、田=水田、領=おさめると読み取れ、何かしら農業を取りまとめる意味を予想できる。
古代史の研究では、田領とは律令に定められていない下級職員で、郡司(ぐんじ)の私的な官吏(かんり)、いわゆる郡雑任(ぐんぞうにん)であり、在地にあって田地の管理を担っていた役職名と考えられている(本紙図1)。田領はいくつかの古文書や木簡にその名が見え、ほぼ全国に存在し、在地の有力者が任命されたと考えられている。
上越市の延命寺(えんめいじ)遺跡出土の二十一号木簡には、郷名、戸主と戸口の人名、田地の所在・所有、田地の種類・面積・価値、買人、売人、日付、役職名と署名が記され、田地の売買に関わる売券木簡と考えられている。署名は「神田君万□」という人物が田領として行っている。つまり、田領は土地売買を保証し、木簡を作成し郡司に報告する任務があったことがわかる。
また、石川県畝田(うねだ)・寺中(じちゅう)遺跡出土の十一号木簡には、郡司(加賀郡司)が田行という田領より下位の役職に宛てた命令書に田領横江臣が署名した内容が記される。
同じく石川県の津幡(つばた)町加茂遺跡出土の加賀郡ぼう示札(ぼうじさつ)(国指定重要文化財)には、律令政府による農業を勧めるための禁令、八ヵ条分が記され、その命令を田領などに伝え、命令を実行せよとの内容が記されている。律令政府から各国へ、国から管内の各郡へ、郡から田領を通じて管内の村々へという命令伝達系統が存在したことが明らかとなった(本紙図2)。田領は地方の末端行政の一翼を郡司のもと担っていた。
花立遺跡に郡雑任の田領何某(なにがし)が居住し、農業を掌る仕事を行ったのかどうか。墨書土器以外の遺物や遺構を総合的に検討し、考古学と古代史の協同によって明らかにすべき重要な問題である。花立遺跡への興味は尽きない。
(伊藤秀和)
※図は、本紙をご覧ください。
※「ぼう示札」の「ぼう」は環境依存文字のため、かなに置き換えています。正式表記は本紙をご覧ください。
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