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ふるさと再発見 Re:discovery Omihachiman 第60回

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滋賀県近江八幡市

まちのなまえ(9)
■「武佐」―武佐宿と長光寺—
今回は「武佐」地域の地名の由来と「武佐宿」、「長光寺」を紹介します。
武佐地域は明治22(1889)年に御所内、長光寺、友定、西宿、西生来、野田、南野、武佐の8か村が合併し、武佐村が誕生しました。その後、昭和33(1958)年に旧近江八幡市と合併して、現在の武佐学区が形成されました。
武佐という地名の由来は牟佐(むさ)神社に見出すことができます。牟佐神社は、平安時代に編さんされた歴史書『三代実録』(天安2(858)年~仁和3(887)年)に「牟佐上神・牟佐下神」とあるうちの牟佐下神に比定されます。ちなみに武佐という語源はおおよそ「牟佐」か「身狭(むさ)」という字を起源に持ちます。
次に武佐宿について紹介します。武佐宿は近世において整備された宿で、中山道沿いにあり、江戸から数えて66番目の宿となります。その町並みは約920mあり、寛政12(1800)年には人口が660人、宿内家数152軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋(はたごや)59軒、人馬継ぎ立て機能の問屋場が2か所、と大いに発展していたことがうかがえます。また、天保年間(1830~1844年)に歌川広重と渓斎英泉(けいさいえいせん)によって描かれた『木曾海道(きそかいどう)六十九次』では、武佐が当時の様子と共に描かれています。武佐宿は近世において宿駅の機能が整備されましたが、宿駅の機能自体は中世にまでさかのぼることができます。仁治3(1242)年に書かれた『東関紀行(とうかんきこう)』には武佐寺のあたりに宿泊した旨の記述があり、当時から宿としての機能があったことがうかがえます。
武佐宿のような街道沿いでは、当時さまざまな往来を目にすることができました。琉球国からの使節、将軍へ献上される象やラクダも武佐宿を通っており、沿道の人々にとっては異文化に触れる機会となっていました。さらには文久元(1861)年に孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)と徳川14代将軍家茂との婚礼において、和宮一行は中山道沿いの武佐宿を通っています。総勢約2400人が通り、その通行には4日間を要するほど大規模なものでした。
次に長光寺の歴史と地名の由来を紹介します。長光寺はその名の通り、長光寺というお寺がそのまま地名になっています。長光寺は瓶割(かめわり)山の北山麗(さんろく)にあり、推古天皇の時代、聖徳太子によって建立されたと伝えられるお寺で、古くは武佐寺と呼ばれていました。中世にはその名を冠した長光寺城があり、織田信長の家臣・柴田勝家の居城として知られています。
このように武佐や長光寺には古くからの歴史と近世における宿駅としてのにぎわいがあり、今でもその足跡を感じることができます。

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