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自治体の皆さまへ

わたしたちの人権236

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熊本県山都町

誰もが人間として生きていくうえで侵すことのできない当然の権利これが『人権』です

■来民開拓団の「真相」に学ぶ
9月24日、「上益城地区社会人権教育研究集会」が御船町カルチャーセンターで行われ、郡内から420人、内山都町から約70人の参加がありました。その研修会で吉田文男先生をお迎えして「来民開拓団の『真相』に学ぶ」と題して講演会が行われました。その講演内容を掲載します。
来民開拓団は、1941年から旧満州、現在の中国東北部に入植しました。そして、1945年8月敗戦の2日後に開拓団全滅という満州移民史上例のない非業な最期を遂げました。伝令者ただ一人を残して、276人全員が集団自決に追い込まれたのです。犠牲になったのは、大半が何の罪もない15歳以下の幼い子どもたちやその母親、祖父母でした。(父親達は兵隊に行って助かったが捕まってシベリアに抑留された。)
被差別の部落であるがゆえに、熊本県の中からただ一カ所、名指しで中国侵略戦争に組み込まれ、敗戦となるや孤立の状況におかれた末の惨劇です。
長い間、来民開拓団は「国の犠牲」「戦争の犠牲」として、反戦、平和の象徴とされてきました。しかし、さまざまな人々からの証言・公的資料によって、真相が浮き彫りにされ、来民開拓団は国家の重要政策と結んだ融和政策と農業政策(分村計画)にもとづいて「部落」を旧満州に移すという国家の融和事業(「部落」を満州に移せば部落問題も解決するし、国策にも合致するという誤った考え方)で開拓団として遠い旧満州に送られたのです。
この歴史的な悲劇は、過去の出来事:と単に片付けられるものではありません。当時の関係者、またご遺族の方々の身を切られるような悲痛や苦しみを考えると憤りを強く感じます。時代背景は今とは違うにしても、当時の国や行政はもちろん、周りの人たちの誤った意識がそこにあったという事実を改めて認識することができました。

■教科書から『士農工商』が消えた
「『士農工商』は身分を表すものではなく、職業名です。もともとは古代中国の四字熟語で、『全ての職業』『民衆一般』という意味です。日本に入ってきたのはまだ武士のいない奈良時代ですから、『士』は『武士』を意味していませんでした。中国の使われ方と同じで、『士』は知識人や役人を指していました。現在でも弁護士、博士、栄養士など、『士』のつく職業がたくさんあります。」
この説明を聞いた時、私(50歳代)は驚きました。なぜなら私も当時の先生から、「部落は江戸時代につくられた。江戸幕府は、人々を支配するために身分制度をつくった。それが『士農工商』で、その下に、さらに一段と低い身分を置いた。その目的は人々の不平や不満をそらすためであった。それが部落の起こり」と学校の授業で習ったからです。
小・中学校の教科書に部落問題が初めて載ったのは1972年。それから長い間、小・中・高校の社会科の教科書の全てが、江戸時代の身分制度を「士農工商」のピラミッド型で記述されていました。しかしそれは大きな間違いでした。江戸時代には「士農工商」という身分制度はなかったのです。
では今、子どもたちはどのように学んでいるのでしょうか。小学校の教科書には、こう記述されています。「江戸時代の社会は、支配者である武士をはじめ、百姓や町人などさまざまな身分の人によって構成されていました」「また、百姓や町人とは別に厳しく差別されてきた、身分の人もいました。これらの人々は、差別の中でも、農業や手工業を営み、芸能で人々を楽しませ、また治安などを担って、社会を支えました」(東京書籍「新しい社会6」)
30年近く、教科書は、江戸時代の身分制度をピラミッド型の「士農工商」という図式で記述し、そして私たちもそう学んできました。しかし近年、部落史研究は進み、教科書も大きく変わりました。長い間の教育や啓発により植え付けられた部落に対する誤った意識や認識を正し、差別をなくす授業が今、学校で行われています。
(参考文献「きずな・高等学校」県人教編)

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