◆地域で愛され続けて
如来の命を受け、さまざまな悪や災いを打ち消し、正しい方へと導くとされる明王。武器を持ち、怒りの表情や威い嚇かくするような姿をしていることが多い。その代表格が不動明王だ。市内には、国の重要文化財に指定された「木造不動明王立像」がある。下吉沢にある八剱(やつるぎ)神社下の収蔵施設で安置されている。
・木造不動明王立像
八剱神社。国指定重要文化財(昭和8年1月23日に国宝指定されたが、25年8月29日に法改正があった)。一木造り・彫眼・彩色剝落。像高95・8センチメートル
※詳細は本紙をご覧ください。
◇下吉沢の歴史をたどる
同仏像は、何でもかなえてくれるという造語「願満(がんまん)」から、「かんまん不動」と呼ばれ、古くから地域で親しまれてきた。「不動明王といえば、怖い顔をイメージするかもしれませんが、かんまん不動はあまり怖くないんです」と同仏像の特徴を話すのは、吉沢歴史クラブ代表の山田文雄さん。確かに、不動明王特有の憤怒を示す表情をしているものの、小柄な体や、均衡の取れた静かな姿勢をしているからか、畏怖感は強くない。そのため、明治・大正時代の子どもたちは怖がることなく、祀(まつ)られている像の前で遊んでいたといわれている。
「かんまん不動はもともと、下吉沢北西にある不動平の不動堂で祀られていた仏さまなんです」と山田さん。「江戸時代に起きた山火事で不動堂は焼失したのですが、かんまん不動は、村民が持ち出して守ったそうです」と市の文化財調査報告書第1集の記録などを基に、同仏像の歴史を語る。顔や肩、腕が黒くなっているのは、火事による痕だそう。山火事の中、村民が同仏像を運び込んだのは、ふもとの大光寺だった。しかし大光寺は明治初めに廃寺となってしまう。そこで松岩寺の山門に一時保管された後、八剱神社の社地内に堂を建て、安置されることとなった。
◇2度の帰還を果たす
実は同仏像、2度も盗難に遭うという数奇な運命をたどってきた。1度目は昭和4年だ。突然の事態に、地域は大騒ぎ。鎌倉市にあった古物商のところで発見されたとか。「当時の人が、市内を必死で探しても見つからない訳ですよ。売られる前に、取り戻せて良かったです」と山田さんはほほ笑む。
この盗難が、文化財としての貴重性を地域で話し合うきっかけとなり、8年に国宝(25年から文化財保護法の規定により指定重要文化財)に指定されることにつながった。指定後、奈良県の美術院による解体修理を経て、11年に下吉沢に戻ってきた。
2度目は平成7年、市内で開かれた文化財特別公開の後だった。盗難を知った地域の人たちは、すぐに県内の鉄道沿線の駅周辺で、チラシを配るなどして捜索した。「1カ月くらいして盗んだ本人から電話がありました。罪悪感からなのか、毎晩うなされて眠れなくなってしまったそうですよ」と冗談交じりに語る。警察の捜索によって、長野県軽井沢町で発見された。
◆安心して祀る環境
2度の盗難をに遭った同仏像。再発防止のため、頑丈な収蔵施設の建設が急がれた。
国の補助事業を活用して、平成10年に着工。平成11年3月に、現在の収蔵施設が完成した。鉄筋コンクリートの平屋建てで、屋根は軽量かつ高耐久性の銅板ぶき。空気の循環も良い造りだ。湿気など、内部の環境を安定させるため、2度の夏を経過させて12年9月から収蔵している。八剱神社総代の増尾和宏さんは「防火・防犯システムが備わった施設ができ、安心して安置できるようになりました」と話す。
◇一目会いに来てほしい
同仏像は、平安時代後期に近畿地方で造られた可能性が高いといわれている。頭部のデザインなどに、当時の作風を備えている。腕や衣を除く体は、1本の木材で造る一木(いちぼく)造りだ。下吉沢の地にやって来た経緯までは記録に残っていないが、長年地域で大切に守られ、人々の心のよりどころとなってきた。年2回の開帳日には、関西など、遠方からのファンも訪れる。
「『お不動さまにお世話になったんです』とわざわざ足を運んでくださる方も毎年おられます。ありがたいです」と笑顔を見せる。
一方で、開帳日に訪れる地域の方は年々減っているそう。「私にとっては子どもの頃から当たり前の存在だったのに、あまり知られていないのかと思うと、少し悲しくなりますね」と肩を落とす増尾さん。「昔から地域で愛されてきたかんまん不動です。皆さんに一目会いに来てもらえたら、うれしく思います」と呼び掛けていた。
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