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芦屋歴史紀行 その三百三十七

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福岡県芦屋町

■月軒(つきのき)遺跡の再評価(2)
白村江(はくすきのえ)の戦い以降

前回のあらすじです。朝鮮半島では、唐(とう)が新羅(しらぎ)を助けて百済(くだら)を破りました。斉明天皇(さいめいてんのう)は、661年に百済救済のため、大兄皇子(中なかのおおえのおうじ)とともに大和(やまと)から筑紫へ下りますが、朝倉広庭宮(あさくらのひろにわのみや)で亡くなります。中大兄皇子は、突如、国防の総指揮を執ることになりました。朝鮮へ送られた日本軍は、667年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗します。
海外での戦に敗れた大和政権は、唐・新羅軍から攻め込まれる可能性に恐怖し、国土の防衛に全力を挙げることになりました。具体的な防衛策として、宣化天皇(せんかてんのう)の時代(在位:535~539年)からあった九州の政治・軍事を司る役所を那の津(現在の福岡市)から、現在の都府楼跡(とふろうあと)(大宰府政庁跡(だざいふせいちょうあと))に移しました。さらに、亡命してきた百済の貴族や技術者を使い、大野城・基肄城(きいじょう)・鞠智城(きくちじょう)・水城(みずき)を構築し、防衛体制を整えました。九州北部から瀬戸内に分布する神籠石(こうごいし)と呼ばれる史跡は、同時期に築かれた防衛城塞(じょうさい)の跡と考えられています。
これらの防衛城塞と並行する形で整備されたのが、国の中央・地方間の緊急時の情報を伝達するための駅伝制と呼ばれる交通・通信制度です。これらを利用し、外敵に備え、中央集権国家として機能させようとしたことがうかがわれます。国家存亡に際して、政治・軍事と共に交通情報伝達制度の全国的整備を行うことを意図したようです。駅路は、目的地に最短距離で到達するように直線的路線をとって計画的に敷設され、原則として約16キロメートルを基準に駅家を配置し、馬を置き、駅使の休憩・宿泊場所を備えました。各駅家は、計画的に配置され、常備する駅馬の数は、その重要性により増減されました。天智天皇(てんじてんのう)(在位668~671年)の時代に駅路が機能し始め、天武天皇(てんむてんのう)(在位673~686年)の時代には、全国的な展開がなされたというのが、古代交通史研究者の一般的な見方とされています。
ここで浮かび上がってくるのが月軒遺跡です。芦屋ボートレース場の南に位置するこの舌状台地(ぜつじょうだいち)を昭和53(1978)年に芦屋町教育委員会が県の協力のもと発掘し、多量の古瓦と礎石(そせき)(建物の柱の基礎となる石)が発見されました。
残念ながら具体的な建物跡は見つかりませんでしたが、瓦の分析から色々なことが分かりました。一つ目は、奈良時代から平安時代にかけて施設があったことです。二つ目は、鴻臚館(こうろかん)(飛鳥・奈良・平安時代の外交施設)や大宰府政庁で使われた瓦と同じ瓦が発見されたことから、月軒遺跡付近に公的施設があったことが分かりました。このことから、律令(りつりょう)時代の国の定め事を記した「延喜式(えんぎしき)」に記載されている「島門(しまと)」の駅、もしくはその機能の一部が月軒の丘にあったとする研究者が増えています。島門駅は、23頭の馬を配置する筑前最大の駅とされています。これは、陸路のみならず、筑豊へ延びる遠賀川、洞海湾へ通じる江川、響灘の要港芦屋津が重なる水陸交通の要衝として、この地が重要視されていたことの現れであると考えられています。
(芦屋歴史の里)

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