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市長の手控え帖

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福島県白河市

■「小澤征爾(おざわせいじ)が指揮した交響楽団」
1月、コミネスで小林研一郎(こばやしけんいちろう)指揮による群馬交響楽団の演奏会が行われた。群響は、高崎市から生まれた地方オーケストラの草分け的存在。昭和初期、詩人萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)が始めた『上毛(じょうもう)マンドリン倶楽部(くらぶ)』の団員が、戦後すぐに『高崎市民オーケストラ』を創設した。すぐプロになり、後年、群馬交響楽団に改称。大都市ならまだしも、当時15万弱の高崎を本拠地にした群響の歴史は苦難に満ちていた。
中心的役割を担ったのは、上毛マンドリンの歌手だった丸山勝廣(まるやまかつひろ)。音楽に人生をかけると誓う。思いついたのが学校を回る「移動音楽教室」。とはいえ、誰もが生きるのに必死な時代。音楽への関心も少ない都市での経営は至難のこと。それでも楽器を背負い、リヤカーに乗せ、山から山へ、町から町へと回る。
徐々に軌道に乗る。丸山は指揮者を探し、桐朋(とうほう)学園の齋藤秀雄(さいとうひでお)教授を訪ねる。「高崎に行けば指揮を振れる!」そこに教え子の若き小澤征爾がやって来る。丸山は「金は払えないが、食わすぐらいはできる」と歓迎する。小澤はぼろトラックに乗り、僻地(へきち)の学校でタクトを振った。
移動音楽教室が評判をよぶ。1955年『ここに泉あり』として映画化され、大ヒット。だが依然として生活は苦しい。楽器を質に入れたり、チンドン屋で働いたり。子供たちは全く音楽に耳を傾けない…。重い足取りで帰りかける。
校門の前で待っていたひとりの女の子が、そっと一束の野の花を差し出す。「来てよかった。あんな子が一人でもいてくれるなら、どんな遠くでも行くよ」風雨に打たれ、炎天下の中旅は続く。
山奥の小学校。『フィガロの結婚、カルメン…』声ひとつ無く聴き入る子供たち。先生は「この子たちの殆どは、一生山の中で暮らします。もう生の演奏を聴くことはないでしょう」と礼を言う。満足し、山を下る団員の後ろから「さようなら~」そして『赤とんぼ』を合唱する子供たち。この声が団員の背中を押した。
群響が生きていくには、演奏のレベルアップと音楽愛好者の増が必要。群馬県を音楽モデル県にして貰(もら)おうと、文部省に陳情。映画に感動した役人の奔走もあり、全国で初めて指定された。次は音楽ホールの建設だ。新しく就任した市長と共に国と交渉し、補助を得ることに成功。同時に市民から寄附を募り、建設費の半分を賄った。1961年、憧れの群馬音楽センターが完成した。記念碑には「ときの高崎市民之(これ)を建つ」と刻まれている。
丸山への不満が表面化する。有名になったことへの嫉妬もあった。「N響に並ぶのではなく、県民に音楽を広めること」とする丸山。「優れたオーケストラにしたい」とする団員が衝突。32人のうち21人が退団。市長自ら事態収拾に乗り出す。その後、指揮者とコンサートマスターに実力者を迎え、見事に立て直した。
一徹な丸山に会った人は、その経歴や学歴に興味を持つ。これを予期してか「私は小学校しか出ていません」。相手が誰であろうと堂々と持論を述べ、体験を語る。誰もが高い見識とたくましい実行力に目を見張る。2003年には、NHKの『プロジェクトX~挑戦者たち~』で群響創生期のことが紹介された。
小澤征爾は〝世界のオザワ〟になっても丸山との交流を続けた。「生涯自分の感動した音楽は、ベルリンフィルでもウィーンフィルでもない。1992年3月31日、群馬交響楽団が行った演奏である」この日丸山勝廣の楽団葬が行われた。バッハのアリアを指揮する小澤の目に、とめどなく涙が流れた。
コロナ禍の折、文化芸術はいち早く不要不急なものとされた。予防のためにはやむを得ないことだったとしても、私には、図らずも日本人の文化的浅薄さが露呈したように思えた。生涯、音楽の力の大きさを訴えた丸山は何と言っただろう。

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