■垂水とE・Sモース
○著名な考古学者が来垂
日本における著名な考古学者の一人として、エドワード・シルヴェスター・モース(1838~1925)があげられます。大森貝塚の発見者かつ調査者であり、「縄文」土器という名称の名付け親だとされています。そんなモース博士は、東京大学の動物学教授として日本に滞在していたときのことを日記に残しており、その記録をまとめたものが、『日本その日その日』という本です。明治12(1879)年5月、モース博士は貝類の調査等を目的に鹿児島県に来訪しています。このとき、垂水市にも足を運んでいたようです。日記には、垂水での出来事として次のような記述があります。
「大学博物館のためとて、変わった形をした卵形の壺を貰った。これは高さ十四インチで、最大直径の部分に粘土のヒモがついている。いうまでもないが赤い粘土厚くて重く」(石川欣一訳)
この記述と、モース博士がボストン美術館に寄贈した資料群の内容とをみるに、垂水でモース博士がもらったという土器は、今でいうところの「成川(なりかわ)式土器」という古墳時代の土器であったことがわかります。モース博士が所有していた成川式土器が垂水市のどこから出土した土器なのかは不明ですが、ボストン美術館モースコレクションの土器は古墳時代後期ごろの形状に近く、中俣地区の森田遺跡等で似た土器が出土しています。
貝類の調査をしていたモース博士が垂水市に来た理由としては、もしかすると柊原貝塚のうわさを聞いていたのかもしれません。柊原地区ではむかしから貝殻がよく採集でき、、「塚」と呼ばれていたこともあったそうです。モース博士が来垂した明治12年ごろ、柊原地区には「塚」と呼ばれた貝殻の盛土のような場所がまだどこかにあったのかもしれません。
○考古学史にとって重要な物
ところで、南九州の考古学徒たちの間では、「モース博士が鹿児島で貝塚を見つけていたら、縄文ではなく貝文時代だったのに」というジョークが交わされることがあります。南九州の縄文土器は縄ではなく貝殻で施文されているためです。モース博士が柊原貝塚近辺まで来ていたという事実から、少し状況が違えば大森貝塚ではなく柊原貝塚が教科書に載っていたのかも、なんて可能性を夢想してしまいます。
垂水市が誇る文化財としては、垂水島津家関係や柊原貝塚の縄文時代遺物ばかりがよく注目されますが、古墳時代の遺物も日本の考古学史に刻まれるくらい重要なものです。
なお、垂水市の発掘調査で出土した成川式土器をご覧になりたいときは、垂水市文化会館にて常設展示されております。ぜひ、ご来館ください。
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