- 発行日 :
- 自治体名 : 北海道旭川市
- 広報紙名 : こうほう旭川市民「あさひばし」 令和7年12月号
市制施行100年を超える旭川市。その歴史は大きな志を抱いた、先人たちによる、挑戦の積み重ねです。このコーナーでは、全国や世界で活躍されている旭川市出身の方をご紹介します。
■名誉三冠 囲碁棋士(名誉棋聖・名誉名人・名誉碁聖)小林光一(こばやしこういち)さん
聞き手:旭川市長 今津寛介(いまずひろすけ)
▽日本の囲碁界をけん引してきたレジェンド棋士
数々のタイトル連覇記録を樹立し、3つの名誉称号を獲得するなど、囲碁界の歴史に名を刻んだ旭川出身の小林光一さん。現在も現役棋士として活躍し、今なお囲碁界に影響を与え続けている小林さんに、囲碁との出会いやプロ棋士としての歩み、旭川への思いなどを今津市長が聞きました。
▽人生を決定づけた囲碁との出会い
市長:小林さんは小学校まで旭川で過ごされたんですね。
小林:永山に住んでいて、正和小学校(大雪通8)に通っていました。当時、寒さが厳しくマイナス30度の日もあって学校が休校になることもありました。冬は歩いて通学していたので自然と足腰が鍛えられ、弟と一緒に相撲大会に出場したこともあります。
市長:小学2年生の時に囲碁を始められたそうですが、その出会いはどのようなものでしたか?
小林:父が囲碁を楽しむ姿を見て、自然とルールを覚えました。週末に碁会所に通っていつの間にか夢中になっていました。今考えると、囲碁を始めてからは学校の成績が上がりましたね。囲碁の効果で集中力や記憶力が向上したのかもしれません。
市長:旭川は文化のまちで、囲碁も盛んですよね。当時、碁会所はどれくらいの数あったのでしょうか?
小林:そうですね。僕がいた頃、碁会所は30か所ほどあったようです。地方棋士六段の早勢勝美(はやせかつみ)先生がやっていらした旭川囲碁会館には強豪がたくさん集まり、私はそこへ行くのが楽しみでした。
市長:そこからプロの道に進むことになったきっかけを教えてください。
小林:小学5年生の時に、後に僕の師匠となる木谷實(きたにみのる)先生が旭川に巡業で来られ、開かれた指導碁会に参加させていただけたことです。当時は、プロの世界があることも知らず、弟子になるとは夢にも思わなかったですが早勢先生のご尽力により入門を許され、天にも昇る心地でした。思えば人生の重大な決断でしたが、小学校の卒業式にも出ず、慌ただしく東京に向かいました。
市長:弟子入りされてからはどのような生活をされていたのでしょうか?プロになるのは大変ですよね。
小林:住み込みの内弟子8人の共同生活です。朝から晩まで囲碁の修行生活で、兄弟子たちは強い人ばかりだったので、負けて悔しい思いもたくさんしました。母親から励ましの手紙が届きましたが、寂しさを感じる暇も無いくらい忙しかったです。一度だけ「今なら帰ってあげてもいいよ」なんて弱音を書いたことがありましたが、叱責(しっせき)の返事が来ましたね(笑)プロを目指す子は院生といい、当時30人ほどいました。その中から勝ち残った何人かがプロに挑める狭き門です。僕は14歳でプロになれましたが、負けて地元に帰る人もたくさんいました。内弟子生活は本当に忙しくて大変な毎日でしたが、自分を大きく成長させてくれた貴重な経験だったと思います。
▽囲碁界を代表する強豪棋士へ
市長:プロ棋士としての歩みを教えてください。
小林:プロになっても内弟子生活は続いていて、高校にも通っていましたが、囲碁に集中するため1年で辞めました。
企業の囲碁会へ指導に行っていた時期もあります。政治家で財務大臣なども務められた与謝野馨(よさのかおる)先生のところにも2年ほど教えに行っていました。政治家は囲碁を打つ方が多く、与謝野先生はアマ七段の実力でした。結果が出せるようになったのは遅く、決して順調ではなかったです。四冠を達成した後、相次いでタイトルを失い無冠の危機に追い込まれた時期もありました。勝負の世界の厳しさと怖さを何度も実感しましたね。せっかくつかんだ大きなタイトルをそう簡単に手放したくないという強い思いがあったので、連覇を成し遂げることができたのかもしれません。
