- 発行日 :
- 自治体名 : 北海道稚内市
- 広報紙名 : 広報わっかない 2025年6月号
■第2回 5歳の引き揚げ編
令和7年は太平洋戦争の終結から80年を迎えます。稚内市の対岸に望む旧樺太では、終戦間際に当時のソ連軍が進攻し、多くの人々が戦火に追われ、命からがら稚内へと引き揚げてきました。その背景には、家族を失い、故郷を奪われた人々の深い悲しみと苦しみがありました。あの時、何が起こったのか。私たちはその記憶をどう未来へ伝えていくべきか。第2回目は当時5歳で樺太からの引き揚げを経験した濱谷悦子さんの証言を紹介します。戦争の悲惨さ、故郷を追われた切なさ、そして命をつないだ想いに耳を傾けてください。
◆豊原の暮らし
濱谷さんは昭和14年、南樺太・大泊で生まれ、生後3か月で豊原に移り住みました。豊原の街並みは碁盤の目のように整い、暮らしやすかったといいます。
「高い建物もなく、空が広くて。父は叔父のタクシー会社で働いていたのですが、そこに新車が入ると、家族を乗せてドライブに連れて行ってくれた。後部座席の窓から見えた広い空が記憶に残っています。」
しかし、終戦が近づく頃、その豊原の空には何度もソ連の戦闘機が現れました。
「飛行機の爆音が鳴り響くたびに町内会の方が『避難して!』と叫びました。何十回も家族で防空壕に身を寄せました。耳に残る爆音と体の奥まで響く恐怖は忘れられません。」そんなある日、母がラジオの前で泣いていました。
「『もう防空壕に入らなくていいからね』と母は言いました。戦争に負けた悔しさと、戦争が終った安堵が入り混じっていたのかな。」
◆強烈な引き揚げの記憶
玉音放送から数日後、濱谷さん一家は母親の実家がある声問に引き揚げることとします。しかし、15歳以上の男性は引き揚げできないという制限があり、病に伏せていた父を家に残さざるを得ませんでした。
「薬を布団の横に置いて家を出ました。お父さんは、生きて帰ってこられるんだろうか…。子どもながらに、不安で仕方なかったです。」
引揚船が待つ大泊には列車で向かう必要があります。豊原駅は避難民であふれかえっていました。濱谷さんが乗車した列車は石炭を運ぶ無蓋車(トロッコ)。屋根もなく、風を直に受けながら、大泊を目指しました。
「列車に振り落とされないよう、母にしがみつきました。駅ではない場所で止まり、用を足しに降りた人がそのまま置き去りにされた場面もありました。」
大泊に到着し、ようやく乗船した引揚船。そこには定員の5倍もの人が。
「船倉に押し込まれ、トイレにも行けず、通路は汚物の山。子どもたちの泣き声が響き、私は横になっただけで船員さんから『船が傾くから寝るな』と怒鳴られました。あの臭いと叫び声。いたたまれなかった。」
引揚船は機雷が漂う宗谷海峡を進みました。
◆生死の分かれ目
濱谷一家が豊原駅を離れた後、豊原駅にはソ連軍により空爆を受けます。
「8月22日の午後、豊原駅が空爆され、何百人も亡くなったと聞きました。亡くなった方はその場で火葬されたそうです。私達が離れた翌日だったようで、もう少し遅かったら…。だから、今は生かされているのだと思っています。」
◆稚内への上陸
引揚船が稚内に到着したのは真夜中でした。
「真っ暗な闇でした。今思えば、そこは北防波堤ドームの中です。そこを人々は無言で並んで歩きました。私たちは疲れて、誰からともなく泣き出してしまいました。母は列から離れて、近くの井桁(いげた)(井戸の上部の囲いのこと)に組んであった丸太のところで、持ってきた角巻を敷いて、私達を寝かせました。」
翌朝、濱谷さんの母親は、稚内にいる遠い親戚を頼るため、幼い弟を背負い、出かけて行きました。
「絶対にここから離れないように、と言われたので、私たちは一歩も動きませんでした。そこへ、男の人が通りかかって、乾パンを一袋くださいました。男性が着ていたセーラー服の青い四角い襟と帽子の後ろについていた小さなリボンの色をはっきり覚えています。おそらく、海兵さんだったのではないかと思います。」
濱谷さんは戻ってきた母親と一緒に、親戚の家で温かい雑炊を食べた後、実家のある声問へ列車で向かいました。そして稚内での暮らしが始まりました。
◆弟との別れ、父との再会
昭和20年11月3日、濱谷さんの弟が亡くなります。腸チフスでした。
「病院へ入院していて、院内感染にあったそうです。戦後の薬の無い時代です。戦争さえなければ、落とさなくてもいい命だった。生きていれば、私のいい相談相手になってくれたのに…。残念でなりません。」
引き揚げてから3年後のある日、濱谷さんの家に一人の男性が訪ねてきました。
「その方はソ連の工場で父と一緒に働いていた兵隊さんでした。先に引き揚げたため、父が生きていることを私たちに知らせに来てくれたんです。父は機械に詳しかったから、工場で重宝されていたのではないかな。自分の目の前で、逃げ出した日本人捕虜が射殺された様子を見て、生きるために自分は逃げないと心に誓ったそうです。」
濱谷さんは昭和23年3月に、父親と再会しました。
「朝方、父は帰ってきました。軍服を着ていました。私の背が小さかったから、足に抱き着きました。涙がでました。」
濱谷さんは5歳の記憶を忘れまいと手記を書きました。その手記は稚内市立図書館や稚内市樺太記念館で閲覧することができます。
問い合わせ:市社会教育課社会教育グループ
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