文化 余市町でおこったこんな話

余市町の埋もれた歴史等を紹介し、改めて余市町を再認識するコーナーです。

~その252~『戦争中の生活』

昭和20(1945)年8月15日、太平洋戦争の終結が国民に向けて発表されました。
この戦争は、余市町の人々にも大きな苦難と犠牲をもたらしました。『明治神社祭神記』には昭和6(1931)年以降の戦没者が662名と記されています。
戦没者の多かった年を見ると、昭和19(1944)年に130名、昭和20年に329名となっていて、戦局が悪化した2年間で、全体の7割近くの方々が亡くなっていることがわかります。
戦没地を見ると沖縄が122名、フィリピン(洋上を含む)が78名など、激戦地が多く、ガダルカナル島やアッツ島など太平洋諸島、洋上での戦没者が多く見られます。
町内でも戦時体制がとられました。現役を離れた軍人によって構成される帝国在郷軍人会は戦地への動員をスムーズにするための全国的な組織で、『登郷土誌』を見ると、同会の余市分会は、武術大会に出場し、暁部隊(陸軍船舶部隊)との対抗演習に参加し、軍馬徴用への協力を行っていました。
また余市川の清掃や余市神社祭典のお神輿を担いだりもしましたが、これは男性が少なくなってきたからでしょうか。
生活は日に日に苦しくなっていきます。豊丘町の『郷土史』を見ると、軍馬の不足を補うために買い上げられた最初の馬は豊丘地区からの2頭で、その後も町内各地から続々と買い上げられていきました。
食べ物や燃料など生活に必要なものも不足してきます。米や味噌、砂糖等の食べ物や衣類などの物資を割り当てる配給が始まりました。
食料は家族の人数により量が決められ、衣類の数も世帯単位で決められ、商品は切符と引き換えに入手しましたが、一度に手に入る量は限られ、その回数も十分ではありませんでした。
砂糖、マッチ、お米、木炭、石炭は昭和14(1939)年から、お酒、お菓子、ローソク、食用油、お酢は昭和16年(1941)から、お味噌、お醤油、衣料品、灯油、セメント、ゴム製品、練乳、粉ミルクは昭和17(1942)年から配給が始まりました。
昭和17年12月には物資不足の中、豊丘地区に家政塾が開かれて、沢町にお住まいだった佐藤さんという女性が、裁縫や礼儀、お花の指導役になりました。
佐藤さんの回想です。
「戦争中の物資の不足な時で、糸など布はもちろん不自由しました。米などと物々交換して何とか手に入れました。…中略…又着る物や、はき物にも困った時ですから、たくさんの方が集まり、喜んで習いごとをしてくれました」
翌18(1943)年5月12日、戦局はますます悪化、ついに町内にも空襲警報のサイレンが鳴り響きました。(空襲については、「こんな話」その61と240で紹介しています。)