くらし 終戦80年 父の日記が巡り逢わせてくれたもの

町内在住の佐藤勉さんの父冨五郎さんは、日本海軍の機関銃兵として日本から4,500キロ離れた南太平洋に浮かぶマーシャル諸島で、太平洋戦争の犠牲者となりました。
終戦から1年半が経ち、勉さんが5歳の頃に、冨五郎さんが戦地で書いた日記が、戦友から町内の生家に送られました。小学校高学年から中学生にかけて勉さんは、この日記に何が書いてあるのか気になり始めました。
父は何を考え亡くなっていったのか、どんな状況の中で、生き残るために何をしていたのか。
気になっても解読できない日記。解読できるきっかけとなったのは、勉さんが64歳の時でした。
当時タクシー運転手だった勉さんのタクシーに東北大学の仁平教授が乗車した際、父の日記が解読できず困っていることを相談し、専門分野ではなかったものの仁平教授が6~7年かけて一部判読するに至ったのです。
8年に一回、日本遺族会が主催するマーシャル諸島慰霊巡拝では、団体行動のため、個人的に冨五郎さんのことを調べることができませんでしたが、3回目に訪れた平成26年、在マーシャル諸島共和国大使が勉さん個人で慰霊巡拝できるよう、コーディネーターなどの手配をしてくれることになりました。
2年後の平成28年に、後に勉さんのドキュメント映画「タリナイ」の監督となる大川さんを含む3人と慰霊巡拝。大川さんとつながりがあった国立歴史民俗博物館の三上教授が、赤外線ビデオカメラによって日記をすべて解読しました。
日記には、父冨五郎さんの当時の想いがつづられていました。
「昨夜は写真を見た」「その為か、夢で子ども、妻を思い出して泣かされた」「勉君どうしたかな」「どんなに大きくなったことでしょう」「僕の分まで子どもを可愛がって、4人の子どもを育ててくれ」「生きていたいと拝んだ。また、妻子の写真も拝んだ」「かなり足が痛む。もう長いことなし。せめて今月いっぱい生きたいものだ」「全く動けず苦しむ、日記書けない、之れが遺書、最期かな」冨五郎さんの最期は日本からの食糧補給が寸断されたことによる飢餓死でした。
「日記を読むことができ、父が戦争へ行ってからも私たち家族のことをずっと想っていたのだと知ることができた。日記の中の父が、父の心がいつも寄り添ってくれた」と、勉さんは話しました。
冨五郎さんの遺骨はまだ見つかっておらず、ウオッチェ島に眠ったままです。勉さんは、平成31年に母の遺骨の半分を、ウオッチェ島の冨五郎さんが埋葬されたと言われる場所へ埋めました。やっと父と母は一緒の場所に眠ることができたのです。
現在勉さんは、冨五郎さんが残してくれた日記が数々の運命を繋げてくれたことに感謝し、父の遺骨が戻ってくることを願っています。