文化 新庄開府400年の歴史に学ぶ 第12回 戊辰戦争

郷土への愛着と誇りを高め新たなまちづくりへ

家老吉高勘解由(よしたかかげゆら)が行った「嘉永(かえい)の改革」によって、幕末の頃には新庄藩の財政は少しずつ回復していき、わずかながらも新庄領内の人口も増えました。
しかし、幕末・維新の動乱、特に鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争に、新庄藩も巻き込まれていくことになります。

■戦火新庄に迫る
慶応3年(1867)薩摩・長州を中心とした倒幕派は王政復古の大号令を出し、天皇を中心とした新政権を樹立。これに激しく反発した旧幕府勢力は、慶応4年(1867)鳥羽・伏見にて新政府軍と戦い敗れました。
新政府軍の行動に疑いを持っていた東北諸藩が宮城白石城(しろいし)にて会議を開き、そこで奥羽列藩(おううれっぱん)同盟が結ばれ、仙台・庄内といった大藩(たいはん)に囲まれた新庄藩も同盟に加入。後に越後の諸藩も加盟し、奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟となりました。

■同盟離脱と新庄城落城
新政府軍は当初、庄内領に進軍するために、新庄に兵を駐留させていました。しかし、同盟締結の報を受け、密かに新庄を脱出。秋田藩を味方につけ、新庄奪還のため秋田から新庄を目指しました。
仙台藩や庄内藩などの同盟軍は、藩境の雄勝(おがち)・主寝坂(しゅねざか)で防ごうとしましたが、合戦のさなか新庄藩が同盟を離脱。金山で仙台藩の隊長が戦死するなどして敗れ、新政府軍は新庄奪回を果たしました。
しかし、庄内勢はすぐに軍を立て直し、慶応4年(1867)旧暦7月14日、福田・仁間・飛田の三方から攻め入り新庄城を攻略。十㆒代藩主正実(まさざね)らは秋田方面に退却し、この戦いで新庄城は焼け落ちてしまいました。

■戦争の被害
後日新庄藩が新政府に提出した報告書によると、城内の被害は武器櫓(やぐら)・大納戸(おおなんど)櫓・天満宮を除く建物が焼失し、二の丸・三の丸に関しては土蔵・侍屋敷などが焼かれ、籾(もみ)12万6300俵などが焼失。城下町・角沢村・福田・仁間・宮内・金沢などの領内の村々が甚大な被害を受けました。
明治2年(1869)旧暦の10月6日庄内藩の降伏により、秋田へ落ち延びていた藩主正実㆒行は新庄へ帰還し、新庄城の再建(藩主が住むための館)など、藩主・家臣・領民たちが新庄領内の復興に勤しむことになります。
―次回に続く

出典:シリーズ藩物語「新庄藩」大友義助著

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