文化 白河かるた 札でつながる今(いま)・昔(むかし) 九枚目 「白川城(しらかわじょう)」

(も)
もののふの
思(おも)いを継(つ)ぎし
白河城(しらかわじょう)

白川城は、搦目(からめ)地区の阿武隈(あぶくま)川の南側に広がる、標高約400mの丘陵地を利用して築かれた山城であり、別称「搦目城(からめじょう)」とも呼ばれます。
城の規模は、中心となる郭(くるわ)と推定される御本城山(ごほんじょうやま)からいくつかの丘陵までまたがっており、広さは東西1.2km、南北約500〜600mにわたり、白河地方で最大規模を有することが調査から判明しています。
鎌倉時代、下総国結城(しもうさのくにゆうき)の武士結城朝光(ともみつ)は、源頼朝(みなもとのよりとも)の奥州藤原(おうしゅうふじわら)氏攻めに従軍し、その恩賞として白河荘(しらかわのしょう)を与えられました。その後、領地を分けられて白河に住み、成立したのが「白河結城氏」で、白川城を本拠として、周辺に勢力を拡大しました。
長らく白河結城氏の本拠であった白川城でしたが、1510年に起きた、一族の小峰(こみね)氏による、白河結城氏当主の結城政朝(まさとも)を追放した事件(永正(えいしょう)の変)を経て小峰氏に権力が移ると、本拠としての機能は小峰氏の拠点の小峰城に移ったと推定されています。
白河結城氏の衰退に伴い荒廃した白川城ですが、廃城となった正確な年代は今も分かっていません。
結城一族の栄華とともにあったこの城跡は、今は静寂に包まれ、当時の興隆を偲(しの)ばせています。

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