- 発行日 :
- 自治体名 : 福島県白河市
- 広報紙名 : 広報しらかわ 令和7年12月号
寄稿 市文化財保護審議会委員 佐川 庄司(さがわ しょうじ)
南湖の完成から3年後の文化元年(1804)に建立された「南湖開鑿碑」には松平定信(まつだいらさだのぶ)による造営の経緯を白河藩儒者広瀬典(ひろせてん)が次のように記している。「南湖は長い間手入れしないため、汚れたりふさがったりして山水の好きな人達も顧みなかった。定信公はこれを見て云(い)われた。堤が壊れて水が漏ったのである。底を浚(さら)って深くし、堤を強化すればもとに戻って田に水を供給し、民を豊かにし、また皆で舟を浮かべて太平の世を楽しめるだろうと。(中略)遊びに来る人は絶えず、美しい眺めを見て喜んだ。樹木は年を加えてますます麗しい。数十年を経たらどんなだろう。」
(大意、碑文は漢文)
碑文中の壊れた堤とは「千世の堤」のことである。この堤は「大沼土手」として慶安・寛文年中(1649〜62)の白河藩主本多忠義(ほんだただよし)の時代に造られていたが、その後徐々に荒廃し、周辺は湿地帯となっていた。そこで定信は、この堤に松を列植し、堤を強固にし、大沼の浚渫(しゅんせつ)と周辺に桜・楓(かえで)などの植栽を指示したという。元々の自然地形を生かしながら、関山(せきさん)や那須連峰などを借景に取り入れ、大名庭園の手法により17の名所を設けた。南湖の整備によって土地利用が可能となった地には藩校立教館の運営資金を得るため学田新田(合戦坂(こうせんざか)・池下・鬼越・石阿弥陀(いしあみだ)・小丸山など)が開発され、新たな集落(鬼越=松風の里、池下=八聲(やごえ)の村)も17景に取り込まれた。湖は異国船の警護に備え藩士の操舟訓練、庶民の舟遊びなどにも利用されたという。
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