文化 白河かるた 札でつながる今・昔 二枚目「稲荷山(いなりやま)」

稲荷山(いなりやま)
白河口(しらかわぐち)の
古戦場(こせんじょう)

九番町の稲荷山は、戊辰(ぼしん)戦争における白河口の戦いの激戦地であり、この戦闘で両軍合わせて1000人を超える方が死傷しました。
白河の城下町は阿武隈川(あぶくまがわ)と谷津田川(やんたがわ)に挟まれており、河岸段丘の段丘面に造られたまちです。そのため、両河川の間は平坦(へいたん)で開けた地形となっています。稲荷山は旧奥州(おうしゅう)街道に面し、白坂方面から北進してくる新政府軍を見張ることができる、戦略上重要な拠点でした。
1868年5月1日明け方、白坂より進軍してきた新政府軍は、小丸山を攻略し、稲荷山の奥羽越(おううえつ)列藩同盟軍と対峙(たいじ)します。この時、新政府軍は偽隊旗(ぎたいき)を掲げて陽動し、同盟軍を稲荷山方面に引き付けました。
同盟軍後背の防御が手薄になった隙に、新政府軍の右翼隊は雷神山(らいじんやま)を、左翼隊は立石山(たていしやま)を攻略し、三方面から稲荷山を包囲・攻撃しました。城下町には丘陵や川といった要害が少ないこともあり、新政府軍の展開は速く、その日の正午過ぎには小峰城を占領しました。
白河以北から来る敵への防衛として、1629年に白河藩主丹羽長重(にわながしげ)により大規模改修が施された小峰城は、239年後に南から来た新政府軍によって陥落したのです。

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