文化 おしえて博物館-七十一-

『南相馬の金華山信仰』

本市にはさまざまな石碑が建っています。その中でも「金華山(きんかさん)」や「黄金山(こがねやま)」と刻まれた金華山塔は非常に多く、1980年代の調査では60基以上が確認されました。
金華山は牡鹿(おしか)半島(宮城県)の東の海上にある島で、金運や海上安全・大漁にまつわる信仰を集めています。
相双地域からも多くの人が訪れていたようです。そして、金華山を参詣した記念として建てられたものが金華山塔であるとみられます。
さて、市内にある金華山塔はいつ建てられたものなのでしょうか。石塔に彫り込まれた年代を見ていきます。
古いものでは幕末(1860年代)まで遡(さかのぼ)りますが、本格的に建てられた数が増え始めるのは、明治10年代(1870年代後半)からです。特に明治20年代や、明治末から大正初め(1910年代)にかけて多くなります。
また、市内の金華山塔の分布をみていくと、沿岸部だけでなく、内陸部にも多いことが分かりました。
沿岸部での金華山信仰は海上安全や大漁祈願に関わるものですが、内陸部の金華山信仰は一体どのようなものだったのでしょうか。
市内にある金華山塔や金華山をまつる神社を回ってみると、のぼり立てが地域の養蚕組合から奉納されていたり、金華山塔と同年代の蚕神(かいこがみ)塔が並んで建っていたりという事例が散見されました。また、小字(こあざ)の単位で養蚕農家が金華山を信仰するグループを作っていた地域もあったようです。
金華山塔が多く建てられた時代は、養蚕が次第に普及していった時代でもあります。農家に貴重な現金収入をもたらした養蚕と、金運のご利益があるとされる金華山。経済的な願いがこの二つの間をつないだのだと思われます。
金華山と養蚕の関係にはまだ分かっていない部分が多くあります。しかし、金華山信仰のような、地域の外に発信地を持つ文化風習が、地域の事情に合わせて形を変えながら受け入れられていく現象は、さまざまな場面で起きていたのではないでしょうか。

問合せ:市博物館
【電話】23-6421