- 発行日 :
- 自治体名 : 福島県昭和村
- 広報紙名 : 広報しょうわ 令和8年1月号
菅家 博昭(大岐)
◆布澤氏の中世(一)
昭和村野尻中向と吉尾(よしゅう)峠で只見町布沢地区は結ばれている。あるいは下中津川新田の玉川左岸から只見町の一の沢山の田沢川から布沢大田をつなぐ道などがあった。
『福島県の中世城館跡』(福島県教育委員会、1988年)によると布沢城、布沢館、滝原館が布沢にはある(分布図24)。さらに小林館、梁取要害城、梁取城、大倉館、和泉田の河原崎城などが伊南川流域には残されている。もちろん、野尻地区には牛首城(栃尾沢城とも表記、現在は途中沢)丸山城が残されている。この城館跡調査は、昭和村域は三島町の小柴吉男氏が担当し、牛首城の現地調査は菊地成彦先生と当時まだ20代の私が案内した。
奥会津博物館の渡部康人氏の現地調査は、2019年4月28日に、私が案内した。その後、6月6日に野尻にて渡部氏の講演会「中世 野尻山内氏の世界」が行われた。
2025年8月に購入し読んだ本・阿部哲人編『上杉景勝』(戎光祥出版、2025年)に、渡辺勝巳「戦国期越後上杉氏の対外交渉と取次-対芦名氏交渉を中心に-」(『年報三田中世史研究』21、2014年)が納められている。渡辺氏は1988年生。現在、洛南高校・洛南高校附属中学校教員。
渡辺氏は260ページに天正7年のものとする〔資料6〕布澤信濃守(輔俊)宛の上杉景勝書状写を掲載する。布澤輔俊は、会津南西の伊南地方を拠点とする山内氏の一族で、芦名氏の支配下にある人物であるとする。資料から謙信も布澤氏を介して芦名氏と連絡を交わしていたと思われる、とする。
天正10年以前、景勝は布澤氏や横田氏といった芦名氏に従属する会津周辺の国人衆を介して交渉を進めていたとし、須江氏・富田氏・金上氏など芦名家臣についても取次としている。一方、景勝側では新発田氏・大関氏・斎木氏、上条氏、直江氏が取次となっている。
上杉氏の本拠・春日山から阿賀野川下流に出て、そこから川沿いに会津黒川に出るため新発田氏を担当取次に据えれば使者の往来も円滑になる。また魚沼広瀬周辺から会津黒川に連絡を取るために布澤氏を選んだとする。私はこのことについて2025年11月末に会津高田で開催された第71回福島県中世史研究会で取り上げ皆さんに検討いただいた。
布澤氏について
渡辺氏が文末に掲載した取次書面の一覧の布澤氏関連の4つの書面を『上越市史 別編2 上杉氏文書集2』(上越市、2004年)から複写し添付し(1)から(4)の番号を付した。
天正7年から9年に比定される景勝から布澤信濃守、布澤弥五郎宛3点と、布澤信濃守輔俊より斎木四郎兵衛尉宛である。そのうち2点は中牧与一左右衛門所持となっている。
(2)と同じものは『会津若松史第8巻史料編1』(1967年)226ページに掲載がある。
また『会津若松史第8巻』の284-285ページには天正17年、18年の梁取右衛門、梁取弥七郎、梁取左馬丞宛の書面が掲載されている。布澤に隣接する梁取と思われる。これらを見ると、この時期に梁取氏が伊達氏と関係を深くし布澤氏は消滅するのであろうか?
伊達政宗が布沢を拠点として山内氏の横田等を攻略したのは『伊達天正日記』にいくつか記載がある。今回は、この布澤氏について、現在の只見町布沢を拠点とする一族としてよいのか?また、ほかにどのような情報があるのか議論した。
