- 発行日 :
- 自治体名 : 茨城県笠間市
- 広報紙名 : 広報かさま 令和7年6月号
■江戸時代、笠間城下の祇園祭と網天王さん
六月の声を聞くと夏祭りが間近になります。
今回は江戸時代初期に始まった笠間大町・八坂(やさか)神社の夏祭りである「祇園祭(ぎおんまつり)」を紹介します。
祇園祭は平安時代半ば頃、京都で大流行した疫病(えきびょう)を鎮(しず)めるための、東山の祇園社(ぎおんしゃ)(感神院(かんしんいん))の祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が始まりといわれます。神輿(みこし)に移した同社の祭神牛頭天王(さいじんごずてんのう)を、御所(ごしょ)(大内裏(だいだいり))に隣接する神泉苑(しんせんえん)へ送って疫病を退散させるという催しで、疫病(悪霊(あくりょう))を水辺(みずべ)に流すという考えを反映しています。
笠間へ牛頭天王の信仰が伝えられた時期は明らかではありません。仏ノ山峠を越えた小貫(おぬき)村(栃木県茂木町)の人々が、同村に祀られる天王社の祭神牛頭天王を菰(こも)に包んで川へ流し、下流の古町(ふるまち)村(石井)の人々が光り輝くこの菰を拾い上げ、集落内に祀ったといわれます。この地が天王塚(てんのうづか)です。天正(てんしょう)年間(一五七三~九一)、この祭神を市毛村の三所(さんしょ)神社へ移し仮に安置、しばらくの間そのままに置かれたといわれます。
寛永(かんえい)十二年(一六三五)笠間藩主浅野長直の家臣菅谷四郎兵衛・城下の住人桧山(ひやま)忠次郎の呼びかけで神輿が造られ、同十四年六月、祇園祭が三所神社と城下の人々により始まりました。祭礼の主役は庶民の暮らす五か町(愛宕町・大町・高橋町・新町・荒町)の人々です。天明六年(一七八六)、現在地に牛頭天王社(八坂神社)が造営されるまで、同祭礼では五か町の希望者の中よりクジ引きで選ばれた当屋(とうや)が祭礼の運営に重要な役割を担っていました。祭礼開始の初年から当屋役の名を記録した文書が残っています。
正保(しょうほう)二年(一六四五)浅野氏は播州赤穂(ばんしゅうあこう)(兵庫県)へ国替えとなり、新藩主井上正利が着任します。寛文(かんぶん)五年(一六六五)三月、願主菅谷弥右衛門・三所神社祢宜(ねぎ)の仁平宗正(主殿頭(とのものかみ))は、井上氏の重臣津川権太夫(つがわごんたゆう)の力添えもあり、同家臣団一二七人から芳志(ほうし)を集めて基金とし、京都で神輿を新たに購入しました。城下の若者二四人が四〇日を費やして神輿を担(かつ)いで京都から笠間へ運び寛文五年六月二十日に到着、六月二十四日の本祭礼当日にお披露目されました。煌(きら)びやかな飾りを保護するために網を張り廻(めぐ)らしたこの神輿が「網天王(あみてんのう)さん」(市指定文化財「八坂神社神輿」)です。六月二十三日が宵祭(よいまつり)、二十四日に本祭礼、二十五日が豊作を祈願する「お田植祭」です。この後、二十四日には「網天王さん」が城下の人々に担がれて大通りを渡御(とぎょ)、揃(そろ)いの衣裳をまとった「笠抜き踊り」の一隊が街中(まちなか)を踊り流し、町内ごとに山車(だし)や造(つく)り物を拵(こしら)えて神輿の渡御に色を添えました。毎年のように水戸や江戸などから芸人が招かれて歌舞伎(かぶき)や浄瑠璃(じょうるり)・大神楽(だいかぐら)などが俄(にわ)か仕立(じた)ての舞台で演じられ、周辺村々からの見物人も加わり大いに賑(にぎ)わいました。
今風にいうならば、官民が一体となり五か町を挙げて始めた祇園祭です。長い年月の中には笠間藩の財政破綻(ざいせいはたん)や飢饉(ききん)などにより、祇園祭はその都度(つど)左右され、人々も暮らしの浮き沈みを経験しました。五か町の人々は耐え忍び、その度に創意・工夫と努力を重ねて祇園祭を守り今日に至りました。祇園祭は五か町の人々の誇りであり、町の盛衰(せいすい)を示すものでした。
市史研究員 矢口圭二(やぐちけいじ)
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