文化 小美玉市の歴史を知ろう 76

■小美玉市の中世(ちゅうせい)城館(じょうかん)跡(あと)

◇茨城県の中世城館跡
中世の茨城県域は、後に戦国大名として一大勢力となった佐竹氏をはじめとして、大掾(だいじょう)氏、小田氏などの領主たちが覇権を争い、それぞれの地を治めていました。県内には、そのような領主たちが軍事や住まいの拠点としていた痕跡が「城館跡」として残されています。
平成30年度から令和4年度にかけて、茨城県教育委員会が調査した「茨城県中世城館跡総合調査」によると、県内で1135か所の城館跡(うち小美玉市内35か所)の所在が確認されています。

◇城館跡とは
戦の際に防衛するための機能を持った城郭施設=「城」と領主や武士が住む屋敷=「館」とを兼ねた建物群です。一般的に城館というと姫路城のような壮大な天守閣や石垣をイメージするかもしれませんが、県内にある中世の城館跡は、台地や微高地などの起伏に富んだ地形を利用して築城されています。石垣は築かれず、大規模な土木工事によって造られた土塁(どるい)、堀、切岸(きりぎし)などの防御施設が特徴の「土」で造られた城です。

◇小美玉市内の城館跡
16世紀、小美玉市域の園部川を挟んで江戸氏と大掾氏の二つの勢力が対立していました。江戸氏は、馬場(ばば)(水戸)城(水戸市)を中心に領地を広げ、さらに小幡(おばた)城(茨城町)を大掾氏の府中(ふちゅう)城(石岡市)を攻略するための重要拠点として位置づけ、南に勢力を拡大していきました。もう一つの江戸氏の拠点であり、園部川の下流に所在する小河(おがわ)城は、配下の武将、園部氏の居城でした。園部川の対岸には、大掾氏の境目(さかいめ)の城である取手山館(とりでやまたて)が対峙していました。

◇小河城跡地内発掘調査の成果
旧小川小学校周辺に所在する小河城は、6つの曲輪(くるわ)、堀、堀切などで構成され、主郭である曲輪Iの外側には堀を経て、曲輪II、III、その外側には現在は道路となった堀切を経て、曲輪IV、Vが配置され、外周の曲輪VIは堀によって区画されています。
令和6年には、旧小川小学校跡地周辺再整備に伴い、曲輪IVに該当する旧小川幼稚園で、発掘調査が実施されました。調査地点となった曲輪は、堀や土塁などの防御施設に守られた平場で建物などが建ち並ぶ場所です。調査では、方形竪穴遺構23基、粘土貼土坑(ねんどはりどこう)8基、掘立柱(ほったてばしら)建物跡(たてものあと)1棟などが検出されました。出土した遺物は、日用雑器類の土師質(はじしつ)土器の鍋、擂鉢(すりばち)、壺のほか、祭祀に用いる小皿(かわらけ)があります。「妙喜(みょうき)」と墨書きされた小皿は、園部氏の菩提寺(ぼだいじ)の一つである妙喜寺との関連が指摘できます。
また、常滑焼(とこなめやき)大甕(おおがめ)、古瀬戸(こせと)平碗(ひらわん)などの国産陶器だけでなく、青磁碗(せいじわん)、香炉(こうろ)(龍泉窯(りゅうせんよう))、白磁碗(はくじわん)などの舶載(はくさい)磁器(じき)(中国などからの輸入磁器)も確認されています。今回の調査では、15世紀代の小河城主としての園部氏の力量と小河城の構造の一端を知ることができました。
玉里史料館 本田信之

●語句解説
境目の城:二つの勢力が争う境界線付近に築かれた城のこと。
曲輪:城の内部に造られる平坦地。土塁、堀などで区画され、郭とも呼ばれる。

茨城県教育委員会発行『茨城県の中世城館』-茨城県中世城館跡総合調査報告書-
(二次元コードは本紙をご参照ください)

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