- 発行日 :
- 自治体名 : 栃木県大田原市
- 広報紙名 : 広報おおたわら 令和7年12月号(No.1341)
■金丸原陸軍飛行場ー後編ー
金丸原陸軍飛行場には、飛行学校の分教場も設置され、パイロットの育成も行われました。周辺の空を、九五式練習機(通称「赤とんぼ」)が毎日飛び回っていたといいます。また、昭和15年(1940)には滑走路が延伸され、第1滑走路(約1,900m)と第2滑走路(約1,300m)が完成しました。この時、滑走路を横切る形で黒羽街道が通っていましたが、滑走路を迂回するように付け替えられました。現在の奥沢交差点から北に分岐する道が、迂回路だといわれています。
戦局が悪化すると、戦闘機を周辺の林や掩体壕(えんたいごう)の中に隠し、滑走路上にはダミーの家屋や林を設け、上空から滑走路だと視認されないように工夫していたといいます。
終戦直前の(1)7月10日、(2)7月18日、(3)8月13日には米軍による空襲を受け、特に(3)では飛行場東側にあった金丸国民学校(現金丸小学校)の校舎が全焼しました。戦後、飛行場の敷地は開拓によって田畑に変わり、その面影はほとんど残っていません。しかし、掩体壕や防空壕などの一部は、現在も遺っており、かつて金丸原に飛行場という軍事施設があったことを今に伝えています。
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