- 発行日 :
- 自治体名 : 栃木県下野市
- 広報紙名 : 広報しもつけ 令和8年1月号
■第10回「東の飛鳥」青龍の由来(5)
しもつけ風土記(ふどき)の丘(おか)資料館
◇太政天皇制度の設立
持統11(697)年2月、草壁皇子(くさかべのみこ)の長子の軽皇子(かるのみこ)がわずか15歳にして皇太子となり、8月には即位して文武(もんむ)天皇となります。持統(じとう)天皇は文武天皇を擁立し、自らは史上初の太上天皇(だいじょうてんのう)となって国政に関与し続け、文武天皇を後見することで持統上皇は天皇と並んで玉座に着き政務にあたりました。日本では太上天皇は天皇と同じ天皇大権を保持して譲位する制度として整備されました。この太上天皇制度の設立には藤原不比等(ふじわらのふひと)が関与していたと想定されています。
『続日本紀』に、文武天皇は即位に伴い藤原不比等の娘である宮子娘(みやこいらつめ)を夫人(ぶにん)に、紀朝臣竈門娘(きのあそんかまどのいらつめ)、石川朝臣刀子娘(いしかわのあそんとねのいらつめ)を嬪(ひん)として迎えたと記されています。(ただし、この時期には「妃・夫人・嬪」という後宮の区分はまだ成立していないため、この記述は大宝律令(たいほうりつりょう)の後宮官員令(こうきゅうかんいんりょう)(養老(ようろう)律令では後宮職員令(こうきゅうしきいんりょう))の知識をもとに書かれたものです。)
夫人とは、「令」では藤原氏など上級貴族の娘があてられ、三位以上として扱われました。しかし当時は皇親以外は皇后になれなかったため、宮子が皇后となることはなく、そのためか文武天皇は皇后を立てませんでした。
ヤマト王権では、かつて天皇と蘇我氏をはじめとする有力氏族との間で婚姻関係がありました。しかし、第34代舒明(じょめい)天皇(天智(てんじ)・天武(てんむ)天皇の父で皇后は皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい)天皇)以降は、皇后には天皇の近親にあたる一世王や、その子孫である二世王が選ばれました。
この婚姻は他氏族との婚姻を排除することで有力豪族の介入を避け、王統の安定化を図っていたと考えられています。しかし、文武天皇の皇后を選定するに当たり、年齢の釣り合う皇女がいなかったためか、異例の抜擢として藤原氏や紀(き)氏、石川氏など臣下出身の女性が選ばれました。ただし、石川朝臣は、もとは蘇我臣の流れをくむ氏族であり、紀朝臣も本来は木(紀)臣(おみ)と称された武内宿禰(すくね)の子孫とされる皇親系の一族でした。さらに、紀臣阿閉麻呂(きのおみあえまろ)は壬申の乱で功績を挙げた人物で、その死後には大紫(だいし)の位が追贈されるほどの名門でもありました。
壬申の乱で叔父たちが大友皇子(おおとものみこ)側に属したため、不比等の青年期には冷遇されていた中臣(なかとみ)(藤原)氏ですが、不比等の努力によって藤原氏は有力氏族に返り咲くことができたと考えられます。
◇飛鳥・奈良時代の寵児 藤原不比等
藤原不比等の父の中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、中大兄皇子の腹心として大化の改新後も活躍した人物で、天智天皇の重臣として活躍しました。不比等が11歳の時に鎌足が亡くなり14歳の時に壬申の乱が起きますが、不比等は何も関与することはできませんでした。右大臣中臣連金(むらじかね)をはじめ縁者(配偶者の関係者)となる一族は、大友皇子(弘文天皇)側の要人として参戦しますが、敗走後捕らえられ処刑されます。そのため、敵側に属した一族として天武天皇の政権初期には朝廷の中枢から外され、中臣氏は冷遇されます。天武朝は新たな組織づくりのため、『日本書紀』天武二(673)年5月条に「大舎人(おおとねり)」の制度を設けます。この制度は、はじめて宮仕えする者は大舎人(宮中の雑用係)として仕え、その勤務状況を見て適職に就かせる、現代の仮採用に近い雇用制度です。反乱側に属した一族で有力な後ろ盾を持たない不比等は下級官僚の大舎人として登用され、そこから這い上がるように実績を積み上げていったと考えられます。また、この大舎人の制度に応募できたのは中央の氏族だけではなかったと考えられます。条文には「公卿大夫及び諸臣・連・伴造(とものみやつこ)らに詔して」とあることから、連・伴造などの地方の豪族らも中央と新たな結びつきをつくる、あるいはさらに強固な関係を築こうしました。一族の者の中から知力だけでなく、騎馬、戦闘に長けた者などを大舎人に採用されるよう都に送り込み、また、志のある若者は都を目指したと考えられます。
次回へつづく
■東の飛鳥関連情報
(1)東の飛鳥プロジェクト「青龍」デザインの新しいマンホール蓋を作成しました…本紙6ページ
(2)教育のつどいにて、記念講演『世界遺産候補「飛鳥・藤原の宮都」』を開催します…本紙18ページ
