- 発行日 :
- 自治体名 : 栃木県下野市
- 広報紙名 : 広報しもつけ 令和7年6月号
■第3回「飛鳥中尾山(あすかなかおやま)古墳は古麻呂がつくった古墳か?」
しもつけ風土記(ふどき)の丘(おか)資料館
◇高松塚(たかまつづか)古墳
奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村大字平田(ひらた)と記しても、この地名に何があるか分かる方はほとんどいらっしゃらないと思われますが、国営飛鳥歴史公園高松塚周辺地区あるいは高松塚古墳の所在地と書くと「ああ、あそこのところ!」とお分かりいただけると思います。
高松塚古墳は、昭和47年(1972年)に明日香村の発足15周年を記念した村史編さん事業の一環として奈良県立橿原(かしはら)考古学研究所と関西大学によって発掘調査が行われ、石室に四神や女性群像など著名となった壁画が発見され、この壁画は昭和49年(1974年)に国宝に指定されました。その後各壁画はカビなどによる損傷のため平成18年(2006年)以降石室は解体され、令和2年(2020年)まで壁画の修復が行われ、現在は修理施設で保管されています。
◇「真の文武天皇陵(もんむてんのうりょう)」中尾山古墳
この有名な高松塚古墳の北側約100mの小高い丘の上に、国史跡中尾山古墳があります。この古墳の発掘調査は、高松塚古墳調査の2年後の昭和49年(1974年)に行われ、墳丘の平面形が八角形の古墳と判明したことで「真の文武天皇陵」の可能性が指摘されました。「真の…」という表現は、現在、高松塚古墳の南東約100mに所在する栗原塚穴(くりはらづかあな)古墳が宮内庁により、文武天皇陵(文武天皇檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかえのみささぎ))として治定(じじょう)されているからです。
この治定の根拠とされたのが、下野国宇都宮に在住した学者、蒲生君平(がもうくんぺい)が文化5年(1808年)に刊行した『山陵志(さんりょうし)』で、文久2年(1862年)には宇都宮藩が「文久(ぶんきゅう)の修陵(しゅうりょう)」として陵墓の保有を行い、明治期になるとさらに治定が進められました。現在もこの当時の治定により歴代の天皇と陵墓の関係が定められているなか、調査が進んだ現在は、天皇陵の指定は受けていませんが真の天皇陵と想定されている古墳が複数あります。その一つがこの中尾山古墳で、さらに明日香村で史跡整備を行った牽牛子古墳(けんごしづかこふん)は真の斉明(さいめい)天皇陵、大阪府高槻(たかつき)市に所在する今城塚(いましろづか)古墳は真の継体(けいたい)天皇陵と想定されています。
中尾山古墳は、墳丘の規模が約20mで、墳丘の外周約33mの範囲には三重の石敷が施された八角形の古墳です。この八角形の古墳は、前方後円墳が造られなくなった古墳時代後期から飛鳥時代の天皇や皇族系の方々の陵墓の形として採用されたと考えられています。
令和2年度(2020年)には明日香村教育委員会と関西大学により、墳丘や巨石を使用した埋葬施設(横口式石槨(せっかく))の再調査が行われました。石槨内面の石材は非常に丁寧に磨かれ、全面に水銀朱(すいぎんしゅ)が塗布されていることが確認されました。石室の内法が90cm四方であることから、火葬し、骨を納めた蔵骨器が安置されていたと想定されています。
◇下毛野朝臣古麻呂(しもつけのあそんこまろ)が造営に関係
『続日本紀』には慶雲(けいうん)4年6月15日に天皇が崩御され、10月3日に下毛野朝臣古麻呂を筆頭に、山陵造営の担当者名や火葬のための「御竈(おかま)」を造る担当者が任じられました。また、ご遺体は11月12日に飛鳥の岡で荼毘(だび)に付され、同月20日に埋葬された記事があり、真の文武天皇陵ならば古麻呂が造営を指揮した陵墓となります。文武天皇は14歳で即位され、24歳の若さで崩御されましたが、大宝律令を完成させました。その編さん作業の主担当者として下毛野朝臣古麻呂が関わっていたことから古麻呂を重用し、それに答えた古麻呂は異例の昇進をしました。