文化 那須の歴史再発見!

■那須町の地域文化遺産 vol.2
今回は、田島地区にある「入植記念碑」と軍馬補充部について紹介します。
明治31年9月、那須村田畑(現那須町田島)に軍馬補充部白河支部那須派出部・高津分厩が設置され、軍馬の養成・飼育が行われました。軍馬補充部では、2才の良駒を購入し5才まで育成した後、軍隊へ供給しました。その後大正14年に実施された宇垣軍縮の影響で派出部・高津分厩は廃止となりましたが、満洲事変により高津分厩跡に高津牧場が再興、放牧地として再利用されました。また終戦後は高津牧場内の厩舎が黒田原中学校校舎として移築されました。
終戦後、昭和20年〜22年にかけて、田畑地区では軍馬補充部の跡地に田島帰農組合と田畑帰農組合による入植が行われました。ちなみに「田島」は田畑地区と近隣の小島地区を掛け合わせた造語で、入植した田島帰農組合の人々の多くは軍馬補充部の従業員でした。そのため入植当初は、農作業に不慣れであったことから昼は作付けと開墾、夜は近隣農家へノートを持参し農作業について教えてもらっていたようです。また食糧状況も厳しく、小麦粉やジャガイモを混ぜたすいとん・雑炊の食事を続けていたといいます。
昭和23年になり、田端帰農組合と田島帰農組合が合併し、また同年の農業協同組合法公布により田島開拓農業協同組合が誕生しました。以後昭和25年に乳牛の導入、翌年には電気の導入と開田開始、昭和32年に高原蔬菜(キュウリ・トマト)の東京出荷開始、昭和38年には養蚕が開始されるなど、営農実績を上げていきました。昭和48年に田島開拓農業協同組合は当初の目的を達成したとして解散しました。
現在、田島開拓を語るモノとして、田島公民館西側に「田島入植記念碑」が遺されており、裏面には開拓者25名の名前が記されています。また、近隣には軍馬補充部があったことを示す大岩も遺されています。これらは地域の歴史を示す貴重な地域文化遺産です。しかし当時を知る資料が大変少ない状況です。同開拓に関する資料がありましたら探訪館にお声がけください。

問合せ:那須歴史探訪館
【電話】74-7007