- 発行日 :
- 自治体名 : 栃木県那須町
- 広報紙名 : 広報那須 令和7年9月号
◆那須町の地域文化遺産 vol.5
今回は、大日向開拓と「大日向開拓之碑」を紹介します。大日向開拓は、東京都の小笠原諸島、伊豆諸島、鹿児島県奄美大島からの強制疎開者や満州、サイパンからの引揚者、地元入植者などさまざまな背景を持つ方々が入植した場所です。特に、小笠原諸島の硫黄島の元島民らは現在島が自衛隊の基地として使用されているため帰島がかなわず故郷に帰ることができない状態にいます。
昭和20年8月12日、東京都は島嶼(とうしょ)からの強制疎開者に対する土地として、国有林16ヘクタールを払下げ、東京都那須農場を設立しました。これが大日向開拓の前身にあたります。このとき東京都から派遣された人物で、後に入植者として開拓を行った栃木県開拓連名初代委員長の森竜雄がいます。
入植は戦後直後から開始され、昭和21年には硫黄島出身者らが入植したといいます。八丈島からの入植者は、戦時中に強制疎開を受けた方々のうち身寄りのない方が塩原町(現那須塩原市)の養育院に疎開し、その後入植しました。昭和25年ごろからは、奄美大島からも入植がなされました。また昭和22年からは隣接する民有地の国の買収があり、開拓地として割り当てられ、翌23年5月16日には「大日向開拓農業協同組合」を設立し、開拓に勤しみました。
入植生活は、硫黄島・八丈島の島民らの多くは温暖な地域から寒冷地への移住と不慣れなこともあり、農作業や炊事などあらゆることが共同で実施されました。また、生活資金の確保のため自動車燃料をつくる「ガスマキ工場」が組合の直営で経営されました。
教育についても、昭和22年に田代小学校(現田代友愛小学校)に大日向分教場が併設され、昭和27年からは季節託児所が設置されると38年からは町営の保育所として移管されました。
昭和55年に開拓35周年を記念し建立された「大日向開拓之碑」には「大日向」の呼称の理由として「清水湧き太陽の恵豊かなため大日向と呼ばれてゐたのをそのまま名づけた」とあります。温暖な島から寒冷地へ移住し苦労を重ねた方々を、太陽は変わらず照らし続けたのです。
問合せ:那須歴史探訪館
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