- 発行日 :
- 自治体名 : 栃木県那須町
- 広報紙名 : 広報那須 令和7年10月号
◆那須町の地域文化遺産 vol.6
今回は、那須高原開拓と「開拓」碑などを紹介します。
那須高原開拓は、東京都の那須開拓事業に応募した旧満州開拓団員らを中心にソビエト抑留・朝鮮半島からの帰還者らが入植しました。
昭和23年秋、南ヶ丘牧場創設者・岡部勇雄ら先遣隊7名が那須に入植しました。先遣隊は那須御用邸の厩(うまや)や下村養魚場の倉庫を宿舎として利用し冬を越え、本隊の到着を待ちました。翌年4月、本隊が到着し約40戸がそろうと、一組(一軒茶屋)、二組(下村養魚場)、三組(守子)に別れ、本格的な開拓作業が始まりました。
入植地は標高600メートルの高冷地であり、火山灰土壌や那須おろしの影響、冷害などから、作物が育つ環境ではありませんでした。そのため、栃木県の斡旋を受け那須からブラジルに渡る人もいたといいます。
作物が育たないため開拓民らは、篠竹を刈り現金収入を得たり、昭和20年代半ばには乳牛を導入し酪農を開始しました。集乳所は一軒茶屋や現在のファミリーマート(守子)の場所などにあり、牛乳を運んだといいます。しかし、高度経済成長に伴い那須が別荘地・観光地化していくと、酪農経営が厳しい環境となり、多くの開拓者らは酪農を離れ民宿やペンションなど宿泊業に経営を転換しました。
この那須高原開拓の流れをくむのが南ヶ丘牧場です。創設者・岡部勇雄は、昭和8年に鏡泊学園へ入学し満洲に渡りました。鏡泊学園は満洲国内で開拓民の技術的指導を行うエリート養成を目的とした学園ですが、翌年不幸にも学園は解散となりました。そのため岡部ら5名は興安北省の三河に移り、ロシア人農家に住み込みながら畜産・酪農や農作業を学びました。これが、那須高原開拓にも活かされたといいます。
現在、南ヶ丘牧場には「開拓碑」と「鏡泊学園の碑」が存在し、またペロシキが販売されています。満洲と那須での開拓の繋がりを感じながらペロシキをほおばるのも一興かもしれません。
問合せ:那須歴史探訪館
【電話】74-7007